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08. クレッシェント・クローズの魔女

 クレッシェント・クローズ六十七番地の三階には、魔女が住んでいる。
 このひとが(一応昔はヒトだったのでそう呼ぶが)、見る者によって姿が変わる。
 たいていの人間はこのひとを老女だと思っているが、ある人は若い男性と認識し、絶世の美女だと思って求婚する人もいたそうだ。わたしには動物の頭に見える。大英博物館への遠足で習った、エジプトの猫だか犬だかわからない神さまみたいな。
 魔女ではあるが、悪いことはしない。
 少なくとも、わたしは悪事を働く彼女を見たことがない。一度、生魚とナッツを瓶詰めにしているのは見た。でもあれは二十年くらい前、わたしが五歳だった時のことだので、見間違いかもしれない。保存食を準備していただけの可能性もある。
 悪人ではないけれど、呪いを売る。
 これはしょうがない。魔女の生業は限られているのだから、それを禁止するわけにはいかないのだ。クレッシェント・クローズの魔女は調剤があまり得意ではなく、呪いくらいしかできることがない。
 それに大前提のこととして、呪いそのものに罪はないのだ。
 全てはそれを頼み、使う人次第。
 ところが魔女には、人間の常識や良識が理解できない。
 作れと言われればその通りの呪いを作り、良識があれば躊躇するであろうそれを、いとも容易く言い値で売ってしまうのである。
 なので多くの自治体が、魔女の仕事を検閲する係を設けている。
 もちろん各市に魔女を管理する専門役人はいるが、膨大な量の全てを細かくチェックすることができないので、ふるいにかける手伝いが必要なのだ。
 これは月番で、役人が近隣の住人から無作為に選ぶ。自分が許可した魔女の業務で支障があった場合には懲罰が及ぶので、役職は拒否することができる。しかし謝礼に支払われる額は悪くなく、しかも市税は免除されるということなので、断る人間は少ないそうだ。
 ほんの数十年前までは、この制度はなかった。
 それまで魔女は頼まれた仕事を自由に、あるいは気まぐれに請け負って生計を立てていたのだが、それでも深刻な問題は起きなかった。
 今よりも師弟の絆が強かった時代、年上の魔女たちは人間の規則を知識として理解することを成熟のひとつの目安としていて、その上で弟子の面倒を細かく見ていたので、ヒトとうまく共存できていたのだ。
 体制が崩れたのは重なる大戦のため、食い詰めた魔女が増えたためだ。戦争によってまず使い潰されたのは先達のほうで、残された方は人間社会の右も左もわからない。それでも未熟を、誰が責められるだろう。そうしなければ生き延びれない、その状況を作ったのは人間なのだ。
 それでなくとも不穏な時代だから、依頼内容は後ろ暗いものが多かった。
 魔女に毒を作らせて自分で手を下すならまだましで、直接誰かを排除させようと依頼して、齟齬から大惨事になった例は数え切れないほどある。大きな声では言えないが、某国で戦後に疫病が流行ったのも、それが原因であったのだそうだ。
 だから現在、政府の規則に従順な「善き魔女」だけが、ロンドンで暮らすことを許されている。一般人がその判断するのだから評価は概ね平等で、悪事を働く隙はない。
 表向きは、そういうことになっている。
 見えないところでロンドンの子どもたちは、魔女にはけっして近づいてはならないと、徹底されて育つのである。
 例えばこのクローズでは、アパートの三階の角部屋に、クロード・スミス氏という紳士が住んでいた。 
 齢は四十二、家族はなく一人暮らしで、銀行に務めていたそうである。
 二ヶ月ほど家賃が振り込まれなくなって、大家がその失踪に気がついた。
 失踪するような人間のこと、部屋は惨状であろうと扉を開けてみると、意外にも室内にはホコリ一つ落ちていない。バスルームの鏡は湯気で曇っており、温水管はまだ温かかった。まるでつい数分前まで、スミス氏が在宅していたのかのようだったそうだ。
 しかし、住民の誰もが、少なくとも数ヶ月はその部屋に出入りする者はいなかったと証言した。
 そうして調べていくうちに気がついたが、皆が皆、彼のことを覚えていなかった。
 中年の銀行員であることは知っているのだが、どうしても顔が思い出せない。顔を合わせて行った会話の内容が漠然としていて、クロード・スミス氏という人物の輪郭が、どうしても見えないのである。
 唯一ある隣人が、スミス氏はレコードに凝っていて、酒に酔うと音量を高くすることを知っていた。実際に騒音に悩まされた記憶はないのだが、魔女と話す機会があって、隣人への愚痴を聞いたのを覚えていたのだ。
 クロード・スミス氏の失踪の原因に思い当たった大家は、早々に部屋を片付けた。
 そのことで魔女を責める人はいなかった。
 表面上は何も変わらない。けれどそれまで漠然としていた魔女との一線が明確になり、それからはクローズのどの家庭も彼女とは関わらないようになった。
 礼儀正しくするひともいるし、全く無視するひともある。どちらにしても、何が魔女の琴線に触れるかは、人間にはわからないのだ。もしも関係ができてしまったら、災害にあったつもりで諦めるしかない。
 魔女が住む地区では、大体どこでもそんなものだという話である。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。