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69. ヒーロー

 霊は見えないけれど、『見える人』はよく見かける。
 僕は霊を見るための視力がないので、憶測に過ぎない。話しかけたところで返事してもらえる状況とは思えないし、その余裕が仮にあったとしても一般的常識人ならごまかすだろうとも思う。でもほぼ、確信している。
 怪異に出会ったのでもなければ、普通の人は何もないところを凝視して悲鳴を上げたりしないし、虚空を指さして怯えたり、突然人を押しのけてその場から逃げたりしないだろう。
 錯乱状態である可能性もあるが、いくらロンドンでもそこまで薬物中毒者や精神に問題がある人が、しょっちゅうその辺をうろついていると、思いたくない。それに僕が知る問題児たちはどちらかというと暴力に走る傾向にあるから、行動がまず違うのだった。
 さて、幽霊が見える人はどういう時に見えるかというと、だいたい夜である。
 当然だ。昼間っから出てこられても怖くない。多分見ること自体に時間は関係ないのだろうけれど、明るいというだけで人は盲目的に安全を信じてしまう。何かいても、我関せぬふりができるのだ。
 だから正確には、見える人がいても昼間はわからない。
 そして幽霊だって、意味もなく知らない人に話しかけたりしない。この世とあの世には明確な境界があって、でもそれを侵してまで伝えたい事情があるのだ。相手にしてもらえない時刻に、わざわざ行動を起こすやつはいない。夜なのである。
 それも、人が少なくなった夜更けだ。
 先に言っておく。勘違いしないでほしいのだけれど、僕の会社はブラックではない。
 ただ本社がアメリカにあるので、オンタイムで話し合いが必要な案件があると、時々帰宅が遅くなるのだ。時差なのだから、しょうがない。その代わり、勤務時間が柔軟で実入りが良い、今時珍しい優良会社だ。
 とにかくそのように、僕には終電ギリギリまで退社しないだけの事情があるのである。
 人が怖がる姿を見て面白がっているというわけでは、断じてない。
 確かに最初はどっきりカメラか何かの撮影だと思ったりしたけれど、僕はそういう、悪趣味なことが嫌いだ。サプライズは好きじゃない。だからけしからん気持ちで、ネタをばらしてやろうと躍起になって周囲を睨みつけていたので、彼らの恐怖が人為的かつ物理的要素からではないことは確かだと自信を持って言える。
 被害者たちが、突然驚かされて逃げ出すことは稀だ。
 人間だって、知らない人に声をかけるときはあのう、もしもし、と控えめに距離を取って声をかけるだろう。何の前触れもなく、ナイフで刺してきたら通り魔だ。良識のある幽霊もだから、そろそろとアプローチを取り、しっかり声が聞こえていることを確かめてから、距離を狭めるのである。
 まあ、中にはテンションが上がってしまうやつもいるようだが。
 霊感があるらしい人を目撃するのは、僕でも朝晩それぞれに乗り換えを含めた三つの主要駅を使って、やっと数ヶ月に一度か二度、といった割合だ。見えない方が大多数の中、元人間で、それなりに社交性を持っている奴らには、無視され続ける生活はきついのだろう。ハイになって飛びついたり、大声を上げて突撃してきたりしても、仕方がないことではある。
 見えない僕にはわからないけれど、幽霊の見た目が一般的にあまりよろしくないことは、もう間違いない。
 生理的に受け付けない容姿のものが近寄ってくると、多くのヒトはパニックになる。ごく自然な反応だ。
 危害を加えられる、と思い込んでしまうのは、そういうメディアの陰謀かもしれない。少なくとも僕は、襲われているらしい「幽霊が見える人」に出会った心当たりがない。
 例えばある駅で、よくそういう人を見かける場所がある。
 地下鉄だけではなく鉄道もある駅で、階下の改札へ通じる階段のすぐ横はタクシー乗り場、というところだ。スーツケースの客が多いせいか、タクシー専用の車道と歩道の間には段差がない。そのため、案内掲示板を見ていたりして、うっかり車道に出てしまう人も普段から多い。だからきっと、そうやって死んだ地縛霊か何かだと思う。
 そういうところだけれど、見える人が飛び出して事故にあった、ということは僕の知る限りはなかった。
 記憶に新しいところでは、レンガ壁に激突しているのは見た。車道の反対側だ。そうでなくても人間は明るい方へ、広い方へと避難する傾向にあるようだから、幽霊も怪我をさせないよう一応は配慮しているんだなあ、と感心したのだった。
 僕は見えないが、なまじ場数だけは踏んでいるだけに、それが口惜しい。
 当事者たちがちょっと立ち止まって冷静に、双方歩み寄る努力をするだけで、それで万事上手くいきそうなものなのに。
 などと考えていたのだが、先日それは自分の傲慢だったと気がついた。
 休日に用事で繁華街に出掛け、疲れたので休憩することにした時のことだ。
 ちょうど食事の時間でカフェやレストランは人が多く、飲み物だけ買ってちょっとした緑地帯の、運良く片方が空いていたベンチに腰掛けた。
 有名店が並び、観光地として知られる地区だから、通りの地べたにまで座り込んでいる人もいるというのに、ベンチは空いていた。そのときはただ、運が良かったと思ったのだ。
 薄雲の散らばる空、頭上から注がれる日光は意外と暖かく、荷物を横に降ろしのんびりとコーヒーを啜った。
 ベンチの反対側、一メートルほど間を置いて、若い男の子が座っていた。
 高校生くらいだろうか。チェックのシャツにジーンズは時代に合わないというほどではないが、ちょっと野暮ったい。育ちの良さそうなふくよかな頬が、なぜか白くこわばっていた。
 ちらちらと僕の荷物辺りを見るので、なにか良からぬことを考えているのかと緊張したが、ひったくるような素振りはなかった。紙袋の、向こうを見つめているのだと、やがて気がつく。
 普段ならそういう場合でも、話しかけてみようとはしない。だが、子どもがトラブルに巻き込まれているのを、知っていて放置するのも大人が廃る。声をかけてみれば案の定、僕が座っているところに、何かがいるということだった。
 その何かに脅かされて、少年は動けないでいたらしい。
 明らかにホッとした顔で「あなたも見えているんですね」と言うので「見えてはいないよ」と答えたら、あからさまにがっかりと肩を落とした。大変素直な子であるらしい。
 「大丈夫なんですか」とあまりに何度も質問するので、幽霊が僕に何をしているのか気になった。
 そして返した質問に対し、少年は躊躇って目線を泳がせ、たっぷりと時間を置いたあと「ナイフで……」と僕を横目に見てから、俯いて黙ってしまった。詳細はわからないが、少年が怯えた理由がわかった気がした。
「じゃあ、君は今のうちに帰ったらいいよ」
 と促したのは、ちょっとした格好つけだった。
 罪滅ぼしがしたかったのも、少しはあったと認めよう。
 人が幽霊の話を聞かないと、決めつけていたのは早急だった。そうだよな、人間だって、全員が善良であるわけではないんだから。今まで悪と決めつけていた生者に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 軽い問答はあったけれど、すでに気疲れしていたらしい男の子は結局素直に立ち上がり、僕の方を向いたまま、数歩後ずさった。
 僕には見えないが、凶器を使おうとするような人くさい感覚が残っている幽霊だ。たぶん腕はふたつしかないし、それが伸びて彼に切りつけたりはしないだろう。押さえつける効果があるかは知らないが、僕はちょっとお尻に力を込める。
 少年はゆっくり移動して、数メートルも距離が開いたところで、僕に背を向けた。すぐに振り返って、
「映画みたいですね」
 と、微笑んだ。
 後は任せて先に行け、という奴ほどすぐに死ぬ。主人公じゃないんだよなあ、と苦笑するしかなかった。
 その時には男の子はすでに、人込みに紛れて見えなくなっていた。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。