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44. アンナ

 わたしの曽祖父は妻を愛するあまり、その遺体と一週間も暮らしたという。
 美談のように語られるが、冗談ではない。死体を傍に置くなんて正気の沙汰と思えない。第一、不衛生だ。真冬のことだったというが、それが明るみに出た時、相好はかなり崩れていたそうだ。近親の話と思うと、心底怖気が立つ。
 彼らは自身の手で建てた、町外れの海辺の家に暮らしていたので、発見が遅れた。
 曾祖母はその美貌で有名であったので、これでは可哀想だから、埋葬してやろうと周囲の人々は曽祖父の説得を試みたが、内面こそを愛していたと言って彼は、誰の言葉にも耳を貸さなかった。
 漁師をしている屈強な隣人が何人かかっても、二人を引き離すことができない。暴れて泣いて手がつけられない曽祖父に、最終的には神父の言葉が届いた。曰く、内面こそを愛していたのであれば、そこに魂がないことが分かるはずだ。器として全うした肉体は埋葬すべきである。
 それには曽祖父も納得して、多少遅くはなったが、葬式を無事に行うことができた。
 港町に暮らす曽祖父だが漁師ではなく、石切り工をしていた。
 海辺に露出した固い地層を切り出して、建築の壁材としていた時代があったのだ。しかしその頃でもすでに職業名は名残みたいなものだった。実際に海の岩を切り出すことはほぼなく、石材を扱うことならなんでもした。寡夫となった後に彫刻を覚え、僅か数年で思うように石が掘れるようにまでなったというので、腕は確かだったようだ。
 妻亡き後、曽祖父は妻の像をいくつか制作した。
 最も出来の良い作品を墓標に設置したので、これは共同墓地で今も見ることができる。それ以外は砕いてしまったらしく、現存していない。
 彼女に関する手記は、大量に残されている。
 妻の死を受け入れきれなかった彼は、せめて記憶にある曾祖母の全てを書き落としておこうと思ったらしい。思い出話から閨房での癖まで、おおよそ人に知らせるべきではない情報までも余すところなく、それこそ曽祖父自身の死の直前まで筆を走らせていた。
 もちろんそんなものを公表することはできないので、それらは夫婦の終の住処となった、件の海辺の家に死蔵された。
 家は一人娘の祖母の持ち家となったが、なにしろ元石工房だから粉塵を配慮して街からも港からも外れている。高齢者の一人暮らしには優しくない立地なので、遠距離に住む親族内で、サマーハウスのように使われて長く、常在人はいなかった。
 そこに兄が棲みついたのは、去年の秋だった。
 晩年に芸術家として開花した曽祖父の血が濃いのか、地域画家としてはそれなりに知られている兄である。
 なぜか昔から曾祖母の話を好んで、ここを訪れるたびに手記を読み漁り、とうとう書斎を自分のものとしてしまった。別荘とは名ばかりの古い石小屋だから、親類が問題にしなかったのを幸いに、祖母から土地と権利を買い取ったのである。
 それから、引きこもっている。
 とはいえ元々出歩くような仕事ではないので、心配はされていない。唯一母はこまめに連絡をとりたいようだが、機械に強くないので電話に頼るしかなく、しかし作業中だと兄は受話器を取れない。制作中に絵の具が乾くと、思ったような作品にならないのだ。だから一度作画を始めたら何時間も熱中する。そのまま折り返して連絡するのを忘れて、母をやきもきさせるのだった。
 それでおつかいの名目で、母は妹のわたしを送って、兄の様子を見に行かせる。
 明言したことはないけれど、母は曽祖父の異常行動は精神的な問題であって、それが遺伝性ではないか、我が子に引き継がれてはいないか、と案じているらしいところがある。
 実際、兄は少しおかしい。
 差し入れにきた妹にお茶も出さないのは、まあ仕事中なのだから仕方がないにしても、ベッドに腰掛けるにも、それが最上のもてなしのように勧めるのは普通ではない。第一寝室は薄暗い。絵画制作は、自然光が十分に確保されている場で行うのが基本だというのに。
 最近では一日の大半を、この自室で過ごしているという。
 室内の配置は以前とだいぶ変わった。聞けば、曽祖父母の時代に使っていたものを、納屋の中で見つけ運び入れたのだそうだ。なるほど、別荘時代のリフォームした内装以外、どれも前時代的な家具が並んでいた。
 わたしは単純にそれを、兄の美的感覚にアンティークが合うという事と納得した。そしてまた、古いというだけで重鎮する人間も世間には多いので、それを別段不思議には思わなかった。
 ただ少し、言葉の端にまるで曾祖母が生きて、この家にいるかのようなニュアンスが混ざるのには閉口した。元々空想癖のある兄ではあるけれども、少しばかり度が過ぎている。
 今日も兄は、小さめのキャンバスに肖像画を描き落としている。
 わたしが知っているだけで、少なくとも三十作目だ。ひとつも公表はしていない。満足のいく出来にならないらしい。どれも庭にある作業小屋に、無造作に積んで捨て置いている。
 墓標でのみ知っている女の、顔、顔、顔。
 わたしには何が違うのか分からない。
 腕時計を見ていた兄がおもむろに振り返り、にっこりと微笑む。
「アンナが亡くなったベッド、部屋、時刻だね」
 そう言って、愛しげにわたしの座るその場所へ、うやうやしく顎をしゃくってみせた。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。