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01. 憑きものに関する近年の変化と問題

 『憑きもの』に重点をおいて研究する者を、昨今ではほとんど見かけなくなった。
 憑きもの、というと多くの日本人は管狐や犬神をまず想像するだろうが、世界各国で事例は多く、また原因となるものも様々である。
 実際のところ、憑きものとは超自然的ななにかが人や家に乗り移ることだから、最小で一つの「器」に憑く「もの」(器になる資質があるのならばそこにも魂が宿っているはずではあるが、その有無は現象そのものにほぼ関係しないので、この場合それを数える必要はない)があればそれで成立するのだから、発生に場所を選ばないのは至極当前のことである。
 英語では憑き物が「憑依」と同じ単語であり、我々の感覚ではこれは人間の魂による干渉であるから、意味が異なるように感じる。
 ところが家筋の中には、近隣の負の感情を受けて家の利へ転ずるシステムもあり、これを生霊の一種と考えると、西洋のそれと矛盾しないのである。多くが動物霊の仕業とするのは、元であっても理知的な人間が容易に他を脅かすわけがないという思い込みによるものだ。
 憑きもの筋といえば莫大な富を約束される代わりに、家系としては多大なデメリットを被ることでも知られる。
 器にとってはいうまでもなく、憑くもの側にも人間的な利己の感覚があるように見える。ハイリスクに対するハイリターンは、社会の道理なのである。
 ところがイギリスの妖精ブラウニーは、カップ一杯の牛乳といった僅かな見返りの代わりに、人間の仕事を肩代わりする。時には、古着を与えられる代わりに、奴隷扱いを受ける妖精もあった。
 興味深いのは多くの場合、こうした妖精の善意が一方的にーー見返りを約束する前にーー始まるということだ。
 些細な家事であれば、数日間は気が付かれることもある。そして人間が対価を払うと言う限りそれを信じ、無償で働き続けるということである。
 つまるところ憑きものとは、異なる社会にあるものが、ヒトから必要とする何かを手に入れる流通の手段でもあるのだ。我々にとって報酬に対する対価が低いように見えても、常識を共有しない彼らに取っては、納得ずくの契約なのであろう。
 憑きものは社会の仕組みに外れた行為が加入する場合、損得に重点を置く傾向が顕著なほど動物が原因とされる。そうでなければ境地に達したヒトの徳、あるいは精霊の慈悲と判断される傾向にあるようだ。
 実際には、世界の境界の向こうにあるものを、簡単にヒトとも動物とも区別できない。単純に甲と乙の、価値観が違うだけの話なのだ。
 憑きものはそれが起こる場所と時代、そして利用するものの気質から、気まぐれに善悪の区別をつけられてきた。
 人を器の基本とすることに一方的な、人間側の有利が前提という認識があった。その一つが受肉であり、多くの場合では社会性でもあるわけだ。これらがある限りリスクはあれど、多くの憑きものはコントロールできると信じられていたからこそ、憑きものはこれだけ広く文化の中に浸透したわけである。
 しかしながら近年、憑かれるものが無機質であるケースが増えてきているという。
 パソコンといった精密機械の不調から受容体の移行が発覚したのだが、単純な器械を媒体にする例も見つかっており、これらの変化が最近の傾向ではない可能性を示唆する研究者もいる。
 消費主義が始まった二十世紀にはすでにそうであったとするならば、我々はすでにかなりの遅れを取っている。そしてその仮定は、その少し前から既知の「憑きもの」として報告される数がぐっと減少した事実を見ても、恐らく正しい。
 憑く側が、人間を最も有効な交渉相手と見なさなくなったということである。
 結局の所、歴代の研究者たちの結論は、人間は憑きものによって、多少の不便を強いられる代わりに富を得てきた、の一言に尽きる。
 社会全体が貧しかった時代にこそ有効であった個人の成り上がり手段であって、現代では重要視する必要はないとする意見が多く、事例が少なくなったことも関係して、多くの研究が打ち切られているのが現状だ。
 しかし果たして、これは正しい選択なのか。
 憑きものがただ、多少の人間の得になっていたと考えるべきではないのではないだろうか。「我々には見えていない部分で何かを搾取をされていた可能性」を、これまで誰も示唆しなかったのは怠慢である。
 現代の科学は、彼らの存在をやっと確認できるようになったばかりで、理解を深めているとも言い難い。超常と呼ばれる現象と生物は民俗学と文学の分野で研究されてきた限りで、ほとんどが未だに、推測の域を出ないのである。
 我々にとって未知であるだけで、彼らには彼らの社会と規則がある。人間を下位と見なし一方的に利用していたとして、価値がなくなってそのまま捨て置くか、排除しようと考えるかさえ、我々には予想ができないのだ。
 そしてまた、仮に知らずに何かを搾取されていたとしても、それが必ずしも人間にとって不利益であったもわからない。あるいは適当に間引かれることで、人間の世界が上手く回っていた可能性もある。
 従来のバランスが崩れた今でこそ、我々は粛々と、観察に考察を重ねていくべきではないだろうか。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。