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33. わかったぞ
報告書をまとめていたはずの同僚が、唐突に向かいの席を立ち上がって「わかったぞ」と呟いたのを、恐らく僕以外は気が付かなかった。
いったいどこでも、昼食の後はだらけがちになるのが毎日の倣いだろう。けれどこの日は張り詰めたと称するには少し異なる、一種の緊張が場を支配していた。
部長はやたらめったら電話をかけていたし、直属の上司は確かめたばかりの期日をまた別の人に確認するしで、誰もが今考えると異様に苛立っていた。
皆が少しずつ不安定になって雰囲気が重くなった、けれどきっかけが何だったのかは誰にも分からない。ひょっとしたら、そのことに気が付いていない人さえいたかもしれない。不安が静かに、降り注いでいるような感じだった。
怒声に罵声の応戦が部屋のあちこちで起こる中、同僚はもう一度「わかったぞ」と言って立ち上がった。
誰の注目も集めはしなかったけれど、僕はムードメーカーの彼が場を収めようと、お得意の冗句のひとつでも披露するのかと思った。そしてこの職場は本来、そのくらい気の良い人々の集まりなのだ。
ところがいつもにこやかで明るい同僚は机の隅を握りしめ、何の感情もこもらない顔、口の中で何かもぐもぐと囁いているばかりで、一向に仲裁しようとしない。目だけは真剣そのもので、開いた瞳孔の中に闇が深く蠢いていた。
僕は仕方がなく、何がですか、と同僚に声をかけた。
同僚は相手のことなどまるで見えていないように、ただかかった声への反射ででもあるかのように、呆けた表情をこちらに向けた。けれども僕はまだ、彼がふざけているのだと思っていた。
「いや、だからさ。クルミの上で回転する象に牛の乳を与えてはいけないということだよ」
多分、そんなようなことを言った。
明言できないのは聞き返すより前に、後ろの口喧嘩が殴り合いに発展したところだったからだ。僕はとばっちりで突き飛ばされ、頭をしたたかに打って脳震盪を起こした。目が覚めた時には自宅だった。
翌朝に出勤したオフィスは、おおむねいつも通りだった。
喧嘩は本当にあったようだが、周囲の認識では、僕は意識を失ったことになっていなかった。その後もそつなく応答していたので意識ははっきりしていると判断されたが、足取りが危なっかしかったので、就業後は上司が家まで車で送ってくれたそうだ。顔色が悪い僕をみて、今日も無理はしないように、と部長が穏やかに言う。
同僚はまだ、出社していない。
読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。