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43.腹の虫

 尾籠な話で大変申し訳ないのだが、諸君には排泄の際にそのものを確認する習慣があろうか。
 色や形状が健康のバロメーターであることはわかっているのだが、私などはいちいち確かめない。素人に良し悪しの判断がつくものか、と思っている。常用薬を少し変えただけで形状に影響を受けるし、第一、見て気持ちの良いものではない。
 だからそれに気が付いたのは、偶然だった。寄りかかった便器の蓋が割れて振り返り、ふとそれが視界に入ったのだ。
 虫が湧いていたのである。
 わたしも発展途上国で仕事をしたことくらいあるから知識はあるが、それは寄生する種類の虫のどれとも異なっていた。黒くて、てらてらしていて、軟体動物の動きながら明らかに甲虫の表皮を持っている。
 あまりの気味悪さに、かえって凝視してしまったくらいだ。
 数分も目が釘付けになったあと、我に返って流した。
 医者に行くにも現物がなければと気が付いた時にはもう遅く、しかしまあ、次回で良かろうと気楽に考えていたのだが、一向にその次が来ない。用を足しても、虫がそこにいないのだ。
 しばらくトイレの中に異物を探す日々だったが、やがて忘れて見なくなる。そして、何かの折に気がつけば、またそこに居るのだった。
 虫は増え続けることはなく、完全に消えることもあれば、突然水に浮くほど大量になることもあった。
 一度は確保したものの、検査するまでには至らなかった。
 忙しくて診察の時間を取れずにいたら、一晩置いた虫は容器の中で黒い液体になり、原型がわからなくなってしまったのだ。
 放置するには明らかな異常であるからほとほと困り果て、友人に相談することにした。
 この友人は病理に詳しいというわけではないのだが、専門分野を極める根っからの研究者である。
 いくら忌憚のない意見を交わせる友人にも、下の話をするのは気が引ける。そして恥もある。知り合いの中で第三者的視点を持ち、この話をむやみに吹聴しないであろう者、と考えた結果、彼に話してみる気になったのだ。
 案の定、友人は不愉快な対応をせず、淡々と話を聞いてくれた。
 たまには食事でも、と誘って訪れた酒場で打ち明けたのはわたしの失態だが、そんなことは気にもせず、歯に衣着せぬ単語を用いて質問してくるので、こちらがかえって恐縮してしまったほどだ。
 いくつかの健康に関する基本的な問診の真似事をした後、
「それはフクゾウムシだ」
と、彼はおもむろに結論を出した。
「腹に据えかねる、というだろう。お前は我慢強いから、そういう悪感情さえ飲み込んでしまう。そうしたものが消化しきれなくなると、そのまま出てしまうのだ」
 そんな話は聞いたこともない。
 私はビールを飲みながら、半信半疑に彼の説明に耳を傾けた。そんな話は聞いたこともないが、私は彼に多大な信頼を置いているのだ。それに珍しく、誉め言葉らしきものを彼の口から聞いて、少しだけ浮かれてもいた。
 それで、どうすれば良いのか対処を尋ねたところ、放置すれば良いという。
 この虫の怖いところは、普通ならば吐き出してしまうほどの悪意を身のうちに置くことで、自己評価の低い人間などは、しばしばそれが自身に向く。そうすると虫に内臓を食い破られ、健康を害されるのである。
「だがお前は謙虚ではないから、心配ない」
 糞と一緒にひりだしてしまえ、と言われ、そういうものか、と納得して酒を煽った。
 奢ると言うのに、友人は一杯目の気の抜けたビールを、ちびちびと舐めてばかりいる。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。