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98. 幻想動植物に関する法と権利について

 今回は付喪神に関連付けて、話をしたいと思う。
 青森で起こった事件は、まだ記憶に新しいのではないだろうか。倉に保存されていた小袖が、所有者が利用していた違法貸金業の取り立て人を窒息死させた事件である。債務者が容疑者として逮捕・立件された後に、付喪神が起こした犯罪であったと判明した。
 ではまず第一に、付喪神とは何か。
 民俗学的には長い年月を経て魂を宿した無機物の事を言う。
 九十九神とも書く。
 百という数字がまずあり、これはかつて、長いものの代名詞であった。転じて完全を表すようにもなった。ひとつ前の九十九は足りない数字だから、真価が下がる。惜しい、と思わせる感覚がよろしくない。悪と分類される所以であろう。
 神秘に生まれ神と称するが、付喪神は怪異である。それそのものが邪悪であるという意味ではないが、ヒトの立場から見て、益にならないのでそう評される。
 物であり続けていれば骨董として価値が出ることもあったが、意思を得た時点で評価が難しくなってしまう。状態が一律でないリスクは、商業的には歓迎されにくいものなのだ。
 付喪神は現在、幻想動植物の分類で準生物IIに含まれる。
 必ずしも有機的な肉体を持たず、意思疎通の「可能性はある」。
 個人所有には、飼育登録が必須である。幻想動物所持申請がなされていなかった場合、速やかに然るべき施設への提出が命じられ、拒否は一切認められない。ただし登録さえされていれば、売買の認可は比較的容易とされている。
 すでに報道されているため知っている読者も多いだろうから、青森の事件の結末を出し渋る必要はないだろう。
 この所有者は「付喪神になっていたことに気が付かなかった」ので、登録していなかった。倉自体が数年から数十年は開閉されていなかったことが確認されたため、所有者の主張は受理され、前述の法律適用により、管理責任は問われないこととなった。
 債務者に罰則なし、小袖は事件後、幻想動物研究所の預かりとなっている。
 また、この付喪神は検査の結果、論理的会話が成り立たないと判断された。仮に所有者との間に接点があったとしても、共犯にはなりえないと見なされている。
 蛇足になるが、動物愛護法の先駆けであるイギリスにおいて、付喪神は衆生として認められていない。古美術・指定文化財の扱いとなり、国外への持ち出しは違法となる。
 仮にイギリスで小袖事件が起こっていた場合、付喪神はいち所有物であるため、それを凶器とする過失致死、刑法上傷害罪に問われる可能性がある。更に仮定の上で、この小袖が共犯となる知能を有していた場合、しかし犯罪を教唆した「者」が法律上存在しないため、所有者が教唆と実行の両方の罪に問われるという、珍妙なこととなるのである。
 物をものとして留めるに、付喪神研究で解明すべき主題とされるのは、発生条件を知ることであった。
 有力視されている説は二つある。
 物の上に意思が溜まる場合と、物にかけた言葉、いわゆる言霊から発達する場合だ。
 どちらも基本的には同じ、少数を積み重ねてひとつに成立させるわけだが、前者が既存の欠片を寄せ集めるのに対し、後者は積み重ねた言葉の強みでそれを一から構築する。 
 魂が複数で成り立っていることは、多くの文化で認知されていることである。
 その数は信仰によって異なるが、その限定はここでは必要ないので割愛する。中国の民間で云えば三魂七魄、煩悩の分だけあるとする研究者によれば百八、あるいは成仏するまでの四十九日に相当するなど、例を挙げればきりがない。猫ならば九つ。動物の種類によっても、変わるのである。
 ここではただ、複数あるうちのいくつかが損失したところで生き物は個を失わず、またそれは修復が可能であるということだけ、理解しておけば良いだろう。
 機能が肉体と近しいからにはなんらかの手段で移植が可能であり、しかし意思であるからには、外部からの変化に柔軟であるとされている。
 意思集合説の支持者の多くが、付喪神の性質に持ち主の影響が強く表れることを主な理由に挙げている。
 後者、所謂言霊の力による発生については、もはや証明の必要もないだろう。
 言霊というものが存在している。それはほぼ無限の可能性をもつ強大な力である、という前提が覆されない限り、(言霊の発生条件が明確化されていない現時点でさえ)実現可能は事実である。
 どちらの説も可能性は高い、しかし未だに仮説のままに留まっているのは、幻想動物学という学問そのものの歴史が浅く、体系化が整っていないからの一言に尽きる。これを科学として証明するための機材が、現代テクノロジーでは用意できないと言い換えることもできるだろう。
 このため、前者の説において多くの魂を供給したことが物証できない以上、発生した付喪神の所有権・親権を主張することはできない。
 言霊説においては術師が能力を証明をすることができればこれら権利を獲得することは可能だが、媒介となる物品への権利は別にあることを忘れてはならない。
 そしてどちらの場合においても、付喪神には意思を表示する権利が保証されており、判断された知能の高さによっては、それ自身の権利と責任がまず第一となるのである。
 ところで、ここで当たり前のように『魂』という単語を用いたが、実を言うと付喪神、霊魂、ジンといったこれら全ての単語は、学術用語として適当とは見なされない。
 幻想動物学において、「魂」の定義は存在する。
 ただしそれは最初期の研究者、メルガルが前世紀に提唱したものである。閉鎖的カトリック信者であった彼が想定した意思の類語であり(それにしては驚くべき柔軟性をもって、一般化されているとしても)、文化広域での公平さに欠ける。国際社会を想定し差異を言語化した共通定義は、未だに存在しないままなのだ。
 このため多くの研究者が、属する民俗学的な分類をもって用語を流用するが、誤訳の問題が絶えず、地域を違えるだけでも認識に違いが現れるなど、しばしば相互理解を妨げる原因となっている。今のところ、各研究者の文化的な所属を明らかにし、いちいち説明をする他に、どの存在について語るかを判然させる術がない。
 これによって、未確認の幻想動物が新発見された場合でも、保護と権利を確保することが難しくないという利点はある。
 逆に言えば、前身がヒトである魂、幽霊の「所有権」を主張することもあり得てしまう。
 付喪神の研究において、どのようにして意思を発生させることができるか、ということが第一の命題であり、ほぼ唯一の関心であった。
 「付喪神は魂を宿した無機物である」が、その物質そのものを含めて付喪神と見なすのか、本体となる物質を離れて意思をもった霊魂そのものをそれとするか、という点ひとつとっても、未だ研究者によって意見が分かれるのである。
 これまで、何の上に発生するのかを、追及した者はほぼ皆無であった。
 無機物であるとされている。それは単純に、魂の構築と定着に有する時間に有機物が耐えられないだろう、という暗黙の了解によるものだ。
 意思を持たないはずの有機物が話したり動いたりした場合、憑依の一例とされ、そうでない場合は有意思に見せかけた術であるとみなされる。それらは一時的な変化である、ならばその分類でおおよそ正しい。
 当然のように、それらには人権に類する権利が与えられない。
 最後に、鈴木太一氏による魔術の検証比較実験を挙げたい。
 近年連続して行われている氏の実験は、既存の魔術の発生条件を明確にする意図による。本来ならばこの分野に関連するものではないのだが、発表されたものの中で最も新しい、発動失敗による結果の比較が大変興味深いので、ぜひこれについて考察してもらいたい。ただしこれらの推論はほぼ初見であることを、常に意識すること。
 未熟な魔術師の間で頻繁に起こりうる失敗の中には、被験者の性質そのものを変化させる効果がある、というものである。
 つまり永続的にその状態が続く。言葉を始めとする作用でもって、特性を置き換えるとも云えるのである。
 これは付喪神という幻想動物の発生に、著しく類似していると言えないだろうか。
 人の上に人格を置き換えた「付喪神」があると認める場合、それをヒトと見なすべきか。恐らく存在としては、ヒトとは云えまい。けれど衆生とするならば所有権を始め、人格のもつ権利を踏みにじる問題が発生しうるのである。
 現段階では様々な法的な判断の、可能性がある。だからこそ、ヒトだけに留まらず権利を認めるべきと主張し平等な社会を志す君たちに、それぞれの考察をして貰いたいと願う。
 次回は幻想植物とAIの比較、法的に権利のない生き物をなぜ政府は「自我があるように振舞っている」と判断したのかについて触れる。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。