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62. メガネをかけて

 視力が悪い人で、外国に住んでいるとわかってくれると思うのだけれど、合うメガネがない。
 結局これは私の財力の問題であるのかもしれないけれど、チェーン店で選んだレディメイドの縁では、骨格構造的に合わないのだ。鼻がひっかからない。耳もちょっと、位置が高いような気がする。
 それで困っていたら、偶然通りかかったがらくた市で、古いメガネを見つけた。
 古い型なのははっきりしているが一点物であるらしく、製造年は不明のメガネで、鼻梁を支える部分がない。最近なら細くあれ軽くあれという傾向にある、つるの部分が一体でまっすぐになっていて、丸く分厚いのが特徴だ。耳に引っかかるところだけ、少しカーブに削ってある。
 こんな太いものをこめかみに引っ掛け続けたら頭痛がしないだろうかと心配したが、これが絶妙な厚みで安定する。なぜか、鼻筋を落ちていくこともない。着けた時に支えた位置から、不思議なことに動かないのだった。
 気に入って店主の言い値で買い(といってもコーヒーが飲めるか飲めないか程度の値段だった。一般の西洋人には小さすぎるし、ディスプレイには地味なのだ)、早速家に死蔵していたメガネのレンズを外して充ててみると、なんとサイズがぴったりだった。力技ではめ込み、これで快適に生活できると喜んでいたら、また別の問題が持ち上がった。
 どうも、見えすぎるのである。
 見えなくても良いものまで、視界に入ってしまう。そうなると歩行さえ難しくなってしまう。通りを横切るのに、普段の三倍は時間がかかるのである。
 必然的に、使用は室内に限られた。
 持ち歩くこともできるのだが、なにせフレームが極太で市販のケースに入らない。普段使いのカバンでは、メガネケース代わりのタッパーを入れただけで、他に物が入らなくなってしまう。嵩張るのは好ましくない。
 幸いなのは私の老眼が、そこまでのステージに至っていないことだ。極小さな文字が霞む程度だから、視力補助を使わなくても日常生活に支障は少なかった。
 だからメガネは平日は書斎の机上に置いておき、休みの日にだけ、ケースを手に持って外出する。
 出先はたいてい本屋である。
 着脱でもたつく問題は、荷物を置ける場所があれば容易に解決できるのだが、どこでも良いというわけではない。よく見えて面白い場所は、やはり人が多いところだ。公園のベンチも悪くないが、雨が名物のロンドンのこと、休みがちょうどよく快晴とは限らない。その点行きつけの本屋は大きな交差点の前にあり、二階にあるカフェから町が見渡せて、最適なのだった。
 街の中は、色に満ちている。
 わたしは絵心のない子どもだったので、色と言えば十二色しか知らないが、きっとこの微妙に異なる色の全てに固有の名前があるのだろうと思うと、ちょっとした感動を憶える。そしてまた、群衆が頭上に掲げる黄金色のエロス像の、晴天の青に映えることといったら。
 カラフルな全体を十分に楽しんでから、わたしはひとつ、目についた色を追った。
 それは、赤いコートの女性の後ろをついていく。カフェから上に見る女性の後頭部、その視線がだんだんと下がって、ほとんど地面からと同じになった。もちろん、色はずっと同じ形をしているわけではないから、腰の辺りを眺めたり、足首に纏わりついてみたり、見える景色がころころ変わる。
 突然、それは四方へトゲを伸ばし、力尽きてアスファルトの上に崩れ落ちた。その上をキャブが走り、潰された色は形を保てなくなって溶けて流れる。道路に、大きく水飛沫の跡が残った。
 しかしそれは死んだわけではなく、最後に伸びきった先の子ども傘に飛び乗って、また通りを移動していくのだ。色は緑、いつの間にか振り出した雨に打たれるごとに、深さを増していく。
 カフェの窓より、それが見えるところからいなくなってしまうと、わたしの意識は肉体に帰ってくる。戻ると思わず、ため息が漏れる。またやがて、別の色に注目し、一連の行動を繰り返すのだ。
 色は街に溢れているが、色はひとに干渉しない。無害で、存在さえも無意味に見える。そうした色になりきったごっこ遊びに耽っていると、自我の境界がどこにあるのか、何もかもどうでもよくなって、心地が良い。
 視界をあちこちに移動させるだけ、体感では数分にも満たない時間を経て、気がついたら明け方の四時だった。
 当然、書店は閉まっていた。
 人一人なくただ非常灯の緑の明かりが、階段の方向から漏れている。静まり返った店内に、微かに漂うインクと埃の匂い。
 わたしはたっぷりと時間をかけて、思考を世界に馴染ませる。
 別に、焦る必要はない。わたしという侵入者に気が付いて警備員がくることもあるし、このまま誰にも見つからず、朝の開店まで気配を消していることもある。暗闇に見える色は少ないから、遊びに疲れたら本を読んで待てば良い。幸いなことに、メガネはあるのだ。
 そして見下ろした手元のティーカップの中に、ハエが一匹浮いていた。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。