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のら、ふらふら:始まり

 ただ繰り返すだけの暮らしに飽きて、

「もう、いいか」

 と、起き上がる。

 埃まみれのベッドから抜け出して、窓際に立つ。

 ガラスは砂で曇っていて、視界がぼやけた。縦横に三かける三、きっちり九分割された窓は歪に曲がって、もう何年も開けたことがない。木枠の黒い塗料はすっかり色あせて、ところどころ剥げて膨張していた。

 家の外には、陸と空の境界が曖昧な、薄紫色が広がっている。

 生まれてからずっと変わらない、荒れ地の夏の風景だ。ここから細部を目視できなくても、知っている。

 ヒースの赤紫色の花と濃い緑の葉の色が混ざって、遠目に茶色く濁るのだ。オレンジ色の空は夜の始まりに現れる霧のため、下部へ行くほど彩度を落とし、山の輪郭を隠す。庭の境に建てられた柵は、逆光で影だけになって、頼りない背中をわたしに向けていた。

 生まれてから今まで、こうも長く寝付いたことはなかった。

 それはたぶん、よくある病気だったのだ。

 ただ症状を甘く見ていたわたしがこじらせ、数週間寝込んでしまっただけのこと。

 ベッドに横たわったわたしはまず、ただひたすら置かれた状況の分析に徹した。それ以外に、することがなかった。息苦しいのを、考えることで誤魔化した。

 この期間はしかし、体調そのものはともかくとして、少なくとも思考は働いていたと思う。

 身体はすぐ動くようになった。けれど、心の方が上手く働かない感じがして、そのままでいた。

 更に数週間、ひょっとしたら、数ヶ月。

 起きているのか寝ているのか、息をしているのかすら曖昧な、何もない日々だった。

 今朝方、窓枠にカラスがやってきて、そろそろ季節が変わることに気がついた。

 春から夏にやってくる、小鳥の声が聞こえなくなっていたのだ。

 それは胸に黄色と黒の模様があるねずみみたいな鳥で、我が家では誰が始めたことか、アドリアンナと呼んでいた。

 小鳥たちは毎年、雪解けが始まる頃にやってきて、ずっとうるさく鳴き続ける。歌わないのは畑のベリーを盗んでいく時だけの、農家の鼻つまみ者だ。

 もう南へ移動してしまったのだろう。何故かは知らないけれど、あの鳥たちがいる間、他の鳥は家に近寄ってこない。代わって黒い鳥が訪れたのなら、もう時節は秋だということ。

 ベリー泥棒のアドリアンナは、同族からも遠ざけられている。

 そんなことよりも、いい加減、何か食べよう。

 それから家中を掃除して、寒くなる前に庭の雑草を片付けよう。裸足の裏、床板に溜まるホコリの感触が、少しずつわたしを現実に押し戻す。放置していたやるべきことは、山程ある。

 家の中には、何の音も響いてこない。

 夏の間は鳥の賑やかさがあった。最近とみに孤独が募りやすくなっていたのは、段々と周囲から、明るい息遣いが薄れていったせいかもしれない。

 自覚した静寂が、わたしの歩みを鈍らせる。

 急ぐ必要はないのだと、もう少し鑑賞に浸ればよいではないかと。わたしはわざと舌打ちをする。未練がましいのは、正しくない。

 ヒースの丘を、黒い何かがゆっくりと移動している。垢だらけの寝間着の、わたしを置き去りにして。

 あれが何なのか、確かめにいくべきかしら。それとも顔を洗って、髪を梳くべきかしら。

「魔女を、探しにいかなくちゃ」

 その決意を忘れないよう、わたしは口に出して宣言する。

 久しぶりに発した自分の声は、掠れてしわがれて、物悲しく響いた。仕方がない。ご飯を用意してお風呂に入る間、歌でも歌えばいくらかはましになるだろう。

 身支度をして、家を出るのだ。予定より、ずいぶんと遅くなってしまったけれど。

 魔女を探しに、行かなくては。


一.交わる道に偽誓を避けること
二.海に想いを馳せる
三.道の隅に糸
四.古き門の魔女見習い
五.垣根の上を飛び越えて
終わり


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。