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のら、ふらふら:五.垣根の上を飛び越えて

 管理人さんと、オックスフォードサーカスへでかけた。

 大きなデパートで掃除粉を買い、パン屋でケーキを買って、家に帰って一緒に食べた。

 充実した一日だった。

 ことの始まりは昨日の夜の来訪だった。世界でも有数の商業地区での買い物に、管理人さんから誘われたのだ。

 管理人さんは同じダンジョン団地に住む人間で、本当は管理人ではないのだけれど、そう呼ばれている。ダンジョンの世話を焼いている以外は研究に籠もっているので、敷地の整理で時々手を貸す程度の付き合いだ。

 足腰が弱くなっているから、外出には付き添いが要る。

 できるだけ早く買いたい物があるのだが、いつもの同行者は都合が合わないので、困っているという。平日は自宅で調合しているくらいで予定はない。断る理由もない。一も二もなく、引き受けた。

 そうしたらまず、足が黒タクシーだったのだ。

 ブラックキャブなんて、絶滅したと思っていた。

 というのも、街で見る多くのタクシーには、宣伝が貼ってあって黒い車体がわからなくなっているのだ。中にはピンク一色で塗りつぶされたものもある。形だってそれぞれ用途に合わせてバンだったりで、あのずんぐり野暮ったい車体ではないのだ。

 今日の会社は個人タクシーだったので、昔ながらのタクシーだった。

「やっぱり、これが良いとお客様のご希望がありますから」

 と、親切にドアを開けてくれた運転手さんは、ぱりっとのりの効いたフォーマルベストを着ていた。

 せっかくだから対面で座ってみたかったけれど、心地が悪いと同行者が言い張って止めるので、後部座席に並ぶ。ちょっと残念だったけれど、安定した飴色の皮腰掛けに座ると、なんだか晴れがましい気分になる。

 いつもの閑静な住宅街を抜けて、中心街まで車の列に並び、時間をかけてたどり着く。

 デパートなんて、箱みたいなガラス張りのビルだろうと侮っていた。

 連れて行かれて見上げる。周囲は確かに近代的建築だったが、それらだって安っぽい造りではない。一際気品のある、漆喰に黒の材木も物々しい建物が目の前に現れて、言葉を失う。そして入店してまた、開いた口が塞がらない。明るくも落ち着きのある内装に、大広間のガラス天井が芸術作品のようだった。

 そこで管理人さんは、ここでしか手に入らないという化粧品を、いくつか買った。

 寿命が近くても女性だなあ、と関心したら、管理人さんに使うわけではないのだと言う。団地のダンジョンが勝手に部屋を増殖するので、場所を誘導させる魔法陣を書く。それにはこのアイクリームが、うってつけなのだそうだ。

 連れが物色中店内をうろつき、銀製品の手入れをするため、わたしも磨き粉を贖った。

 小さな缶にちょっぴり、白いペーストが入っているだけなのに、目玉が飛び出るような金額を払う。もう二度と買わないと心に誓う(ところが磨き粉は作業がしやすく、効果が長持ちするので、その決意はすでに揺らいでいるが)。

 ちょっと散策したいと言うので、高齢の――といってもわたしからしたらかなり年下だが――の管理人さんの荷物を持って、一緒に通りをぶらぶら歩きした。

 建物の入り口と入り口の間隔が広いので管理人さんの体力が保つか心配したが、買い物はしなくて良いという。周囲に並ぶ大型店舗の、ディスプレイ目当てだそうだ。シーズンのイベントごとに代わるので、いつも楽しみなのだという。

 いつもなら嗜める付き添いを説き伏せて、渋々ついてこさせるので、引き止められなくてうれしい、と同行する老婦人は言った。

 お礼に、おやつを奢ってくれた。

 赤いマークの量産店は、彼女の最近お勧めのパン屋だ。

 混み入った店内に押し入り、気に入っているというクロワッサンを選ぶ。わたしは匂いでパンは好みじゃないとわかったので(うんと発酵した、すっぱいのが好きなのだ)、ロンドンチーズケーキなる甘味をひとつお願いする。

 名前はチーズでも酪乳は入っておらず、一言でいうとラズベリージャムパイに刻みココナッツを貼り付けたものだった。見た目通り素朴な味だ。知らないお菓子はなんでも試そうと普段から目を光らせている。油紙に包まれたケーキの、紙袋を両手で抱く。

 それから帰って管理人さんの家にお邪魔し、ゆっくりとお茶を飲んだ。

 管理人さん宅は地階にあり、家中に棚が設けられていて、どこもかしこもメモとダンジョン管理に必要な巻物や薬物で詰まっていた。床にも本が積まれており、その狭間にある立派な二脚のティーテーブルセットが、唯一生活を感じさせる。

 奥の部屋は書斎で、大きな机の上に書きかけの論文が散らかっている。と思ったら、手前からどこかまではベッドであるという。本人も、どこまでシーツかわからないそうだ。

 管理人さんは人間だけれど、幻想動物の研究が第一で、魔女に負けない熱意を抱いている。

 もちろん話題も迷宮に関することだった。

 何かに没頭するひとの、時に力のこもる口調が懐かしく、わたしは邪魔にならないよう最小限の相槌で、ダンジョンの食性と内部構造を聴く。

 荒れ地の家に住んでいた頃、十六人姉妹もこんなふうに、至るところで研究について語っていた。もっとも、お互いに自分の趣味にしか興味がないので、聞き手は一人もいなかったけれど。

 埃っぽい本の山に囲まれて、わたしは家族を懐かしく思い出す。


 気が付いたら、暗闇の中に立っていた。

 わたしは裸で全身が濡れており、髪には石鹸の泡がわだかまっている。肌身離さず身につけている指輪のネックレスが、濡れて重みを増していた。

 そう、お風呂に入っていた。

 突然の停電を疑ったのも一瞬のこと、足元の頼りない感覚と、淀んだ空気から、ここが平行線の上であることに気がついた。

 平行線は世界と世界の間にある空間のことで、幻想種には馴染み深い場所だ。

 神隠しや妖精の輪と呼ばれる、ある地点から遠く離れた別の場所へ唐突に現れる現象は、平行線を通り抜けることで起きる。

 移動に便利だが世界間を飛ぶのは危険もあり、魔女でも基本的には、特定の位置に固定された公道を利用する。先程までなかった場所から、入り込むことは推奨されないのだ。なぜなら、平行線の中は時間と磁場が一定ではなく、一歩でオーストラリアに行けるところが、ほんの少しずれただけで六ヶ月も経って、しかもハワイに着いたりするからだ。

 何故かはわからないけれど、わたしは今繋げられた道ではなく、不安定な空白地帯にいる。

 長居をするのは感覚が狂って良くない。道を探すべく、とにかく右へと歩き出した。

 巡回してしまわないよう、意識して直線の上を進む。首から下げている指輪のおかげで、平衡感覚は万全だった。

 こういう特に協力的な指輪は、生き物を中身から外巻きにした事件が封印されている、ガーネットだ。重力に関係する魔法なら、何だって手を貸してくれる。たまに頼んでもいないのに、壁を歩かせられることもある。基本的には無害だ。

 それなりの月日を共にして、わたしにもだいぶ、それぞれの指輪の個性がわかるようになってきた。

 自己主張は少ないが、十四個それぞれに個性があり、おそらくは意思がある。強力な結界で何重にも抑えているので会話はできないが、わたしが身につけるのに慣れて、同調してきたように感じる。

 わたしは暗闇の中、微笑んで外巻きの指輪を撫でる。小さな石に銀が渋色に変色したシンプルな輪は、内側に彫られた文字を誇らしそうに光らせた。

 数分、あるいは数ヶ月足を止めずに前進した結果、ようやく道らしき物が現れる。

 何もない空間に、帯のような細い線が、前方の左右に流れた。最後に平行線を使ったときよりも、光が弱い気がする。慌てればまた、どこかに飛ばされてしまう。速度を保ち、そのまま足を踏み入れた。

 硫黄のにおいがする。

 次に目の前に広がったのは、パン焼きかまどだった。

 置き去りにしたままの形で、そこにある。横には、発酵時に生地を休ませる棚。見上げると色ガラスに、サソリのまじないもちゃんと見えた。

 荒れ地の、自宅の釜だった。

「ああ、式を間違えたのね」

 わたしは苦笑して呟く。

 どんなに著名で優秀な魔女も、不得意なものはある。鉱毒の専門家が異種空間の結合で、これだけできたらむしろ大したものだった。

「いいえ、わざとよ」

 悔し紛れに嘯いて、見えない相手は唇を突き出した。わたしの記憶の中、いつもそうしていたように。久しぶりね、と声をかけても、相手はにべもない。

「わたしのこと探してたでしょ? 何の用なの?」

 刺々しい口調で硫黄毒の魔女が言い放ち、わたしはどこを向いて話したら良いのか、一瞬言葉を詰まらせる。

「出てきてくださいません? あなただって、わたくしの顔が見えないと話しにくいでしょう?」

「わたし、忙しいのよ。何が目的なの?」

「どうして? 家族の顔を見るのに、目的なんてありませんわ」

 わたしは引き出しからふきんを一枚取って、身体を拭く。長い年月を彷徨っていたように体感しても、実際にはシャワーを浴びたばかりだったのだ。全身を乾かして、床に溢れた水滴を同じ布で吸い取る。首にかかった指輪の一つがちりっと鳴り、魔法で乾かせばふきんを無駄にすることはなかったのに、と気がついて後から頭を抱えた。

 正体を表す気が更々ない魔女は、鼻で笑った。

「親子愛に目覚めたとでも言う気? お生憎さまだけど、わたしはそのパン釜が、わたしの母親だと思ってるわ。今更、何よ」

 嫌われたものだ。しみじみと悪態を聞く。

 混沌の魔女は、正しい母親とは言えなかった。

 ぽこぽこと産み落とすだけ産んで、捨ててどこかへ行ってしまう。思いつく魔法式だの生物だのを作っては破滅を招き、そのまま後ろも振り向かず、何もかも置き去りにしてきたのだ。先の出世には興味がなく、もっと言えば、実験の結果もどうでもよかった。惜しげもなくおもわすれをして忘れ続けたのが、その何よりの証拠だろう。

 家で帰りを待っていた幼い娘に対して、「あんた、誰?」とのたまったのだ。

「だから今、拾い集めなおしているところですの」

「娘は無理じゃないかしら」

 硫黄毒の魔女が、忌々しく吐き捨てる。

 わたしはかまどの蓋を開き、手を突っ込んで中を探った。巣を作っていたノームが手に飛び込んでくる。掴みだし、床へ捨てた。多分目当てのものは、煙突側。

「顔を見せて頂戴」

「嫌よ」

 冷たく言い放つ相手の、喉にその時指が触れた。

 掴んで、引っ張る。相手は抵抗したけれど、虚を突いた一瞬が有効に働いた。体格で言えば勝ち目のないわたし側に、大柄な魔女を引き抜いた。

 勢い余って、ふたり揃って床に転がる。貯蔵袋から溢れていた小麦粉が、床から空中へ舞い上がった。

 何をするのよ、と叫ぶ硫黄毒の魔女はとっさにローブから粉袋を取り出して、わたしに叩きつけようとする。床に両手をついたわたしは、何もできない。まあ、毒でも死ぬことはないだろう。

 幸運だったのは、そうなる前に、魔女が気がついてくれたことだ。

「あら」

 たっぷり数秒、硫黄毒の魔女は硬直して動かなかった。

 燃えるように赤い髪は母親譲り、といってもその魔力がパンに宿っただけのこと、血縁なんかないのだけれど、とにかく似ている。それが細かい曲線を描いて、たっぷりと背中を覆う。ふっくらした頬に重量感のある上半身と、正比例してか細い脚。

 かつてあんなにも嫌っていた、灰色の服を着ている。でも昔ながらの長いローブとワンピースではなく、パンツスタイルだ。健康的に焼けたそばかす肌に、白いシャツがよく似合う。

 久しぶりに見るその姿と、ある意味で目論見通りの反応に、わたしはくつくつと喉の奥で笑った。

「まあ、エレノラじゃないの。なんてこと。あのクルミのちびちゃんが、こんなに垢抜けちゃって」

 ぱっと花開くように笑顔になった魔女は、わたしの両頬を手に挟んで、額にキスの雨を降らせた。その両手首に、親愛を込めて指を添える。細くて骨ばった、強い手だ。

「どうして裸なの? 相変わらずやせっぽっちね。 服は? あなた、ほうきはどこにやったの?」

 わたしが入浴中に、強引に連れ出したのは彼女自身なのだが、そんなことはすっかり忘れて、再会の喜びに浮かれている。わたしもぶつけられる久しぶりのマシンガントークに、表情が緩むのを禁じ得ない。

 わたしが誕生したとき、この一番上の姉は、もう家を出ていた。

 なので、あまり顔を合わせたことはない。それでも帰省のたびに、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたものだ。

 最初の数年間、わたしはイチジクとクルミ混じりの、小麦粉の塊だった。

 生きているだけの、何かだった。そこまで悲惨な姿で生まれた娘は他になく、末娘ということもあって、姉たちは特に庇護欲を掻き立てられたらしい。

 五体満足どころか食べることさえままならぬ、哀れな十六番目の妹。

 それがわたしだ。

 生まれてすぐ母が失踪したので、わたしの面倒の一切は家に残っていた姉たちが行った。

 こねくり回して貰ったおかげでようやくひとの形を取れるようになったが、物覚えも要領も悪く、ちっとも魔女としての技量が身につかなかった。

 生き残ることすら怪しい妹がいても、魔女として姉たちも独り立ちしなければならない。

 妹に安全な家から出ないように言い含めて、外へ出ても姉たちはできる限り、様子を見に帰って来た。そうした姉たちの来訪と、気まぐれにぶらっと帰ってくる母がいない間、わたしは荒れ地の家に閉じこもっていた。

 それがいつまで経っても巣立つことができない、混沌の魔女の末娘だ。

 一通り全身を撫で回したあと、わたしの胸元の指輪に気がついて、姉は眉間にしわを寄せる。

「なんでママの真似なんてしているの? 混沌なんか名乗って、どうしたの?」

 ライ麦パンから生まれた長女は、普段の聡明さをどこに置いてきたのか、不思議そうに尋ねる。

 もちろん、指輪が本来誰の持ち物なのか、彼女も知っている。目の奥にかぎろう不安でそれがわかる。認めたくないだけだ。

「襲名いたしました。エレノラ改め、当代の混沌の魔女でございます」

 わたしは膝を正して、姉に対して恭しく報告する。

 姉の顔から、すっと表情がなくなるのを見た。まるで都会の人間の、女性みたいな格好だ。床の上に、脚を投げ出して座っている。

「ママは?」

 姉が尋ねる。

「母上さまは先の夏に亡くなりました。形見分けに、お姉さま方を探しておりましたの。字も、名乗りたいのならばお譲りする次第です」

 わたしはできるだけハキハキと、簡潔に釈明する。

 ちょっと声が高くなってしまったのは、予め練習していた挨拶を、上手くやり遂げたかったからだ。タイルの床の上、わたしの半径一メートルから、薄く積もった小麦粉が逃げて離れる。

 溢れた粉はどんどん部屋の隅へ転がって行く。

 わたしが意気込んでのことかと思ったが、その結界は無意識での発動の域を超えている。壁と地面の間に追いやられた小麦粉は、どんどん圧迫されて、熱で焦げた色に変わった。首にかけた、装飾具を手に取る。丹念に調べても、どれかがいたずらしている気配はない。

「ああ、いけない」

 それに思い当たったわたしは立ち上がり、玄関まで走っていって、家の守りのスイッチを切った。

 留守中、家に何かが入り込んではいけないから、警備に取り付けていったのだ。ドアの御札を剥がし、まずは一安心する。

 侵入者を足止めする術式を組んだ結界は、元の魔力を同じくする姉妹には、効かないようにしてあった。それが急に逆流したので、不調をきたしたのだ。もう少し遅かったら、確実に術式は焼き切れていただろう。

 わたしはほっと、息をつく。もう二度と、家中に手書きの式を組んだ糸を、貼ってまわるのはごめんだ。

 玄関から廊下、台所を戻ってパン焼き部屋に戻る。今は家の中を見て回る時ではない。魔力の制御がおぼつかないほど、動揺する姉が気がかりだった。

 硫黄毒の魔女は床の上に、先程と同じ体勢のまま、気抜けしてタイルの目地を睨んでいる。

「……そう、死んだの」

 はい、とわたしは相槌を打つ。年若い魔女は、擦り切れていない表現豊かな感情を、顔に浮かべた。顔だけではなく喉と、両肩と、指先にも。

 相手が落ち着くまで、わたしはじっと、身じろぎせずに待つ。

 鼻を啜って混沌の長女は、

「わたし、てっきりママが死んだら、その時がわかると思ってた」

 と、啜り泣いた。

 わたしは生涯で一度たりとも、母と姉が和やかにお茶を飲んでいる姿を見たことがない。

 もちろん姉は外に仕事を持ち、母は世界中を放浪するのに忙しかったので、両者が家にいた事など、数えるほどしかなかった。その全ての機会で、姉は母の顔を見れば噛みつき、声を聞けば罵倒を返していた。母が在宅と前もって知っていれば、予定を変更して帰省しなかった。そんな反抗的な娘を、母は飄々として取り合わなかった。

 姉の反抗は、当然のことだ。

 幼少のみぎり母親に忘れられ、下の妹を守り育てるのに、姉はいつも必死だった。真面目が服を着たような姉と、不真面目を極めた母。

 硫黄毒の魔女はしょんぼりと項垂れ、かろうじて姉の威厳を保とうと、唇を噛んで嗚咽を殺している。母と姉は、本当によく似ている。

 見ていられないほど傷心の魔女へ、忍びなくなって、嘘を付く。

「わたくしもです。風邪で寝ていて、朝気がついたら、灰になっていたんですの」

 本当は、母は前日まで家にいなかった。

 ぶらりと旅から戻って、そのまま麓の村へ直行し、一晩中飲み歩いた。

 頭からスコッチを被ったみたいなにおいをさせて、でも顔色は一切変わらず、いつものように捉えがたい顔をしていた。特徴的なふらふら歩きで、歩いて家に帰ってきた。

 昼からはずっと、わたしが野草を乾かしたり、パンをこねたりするのを、手伝わずに後ろから見ていた。いつもそうなので、わたしは気にしなかった。

 それから庭や荒野をうろつき回っていた。それだけ暇があったのに、私物でぐちゃぐちゃの自室と納屋を、片付けていかなかったのは母らしい。

 楽しいことが好きなひとだった。

 じゃあ、またね。

 ちょっと旅行にでも出るような気軽さで、わたしを抱きしめ頬にキスして、逝ってしまった。

 愛情表現が極端な母だったので、わたしはいつものように、無感動に最後のハグを受け止めた。気の利いた言葉のひとつ、言わせなかった母。あなたも早く、家を出るのよ、と初めての論告らしい言葉を残して。

 だからわたしは、灰の中に埋まる十四個の指輪を前に、何が起こったのかわからなかった。

 数日放心した後、仕方なく埋葬した。

 魔女の灰は貴重品で、遺産として相続したり、葬式の客に振る舞われたりする。魂は約束の大地へ向かい、肉体は必要ないものとして、次の世代に残していくものだ。

 でもわたしは全部集めて、ミルク瓶に蓋をし、荒れ地に埋めた。

 放浪好きの母のことだから、ひょっとしたら風に撒いたほうが良かったかもしれない。けれど、それがわたしにとって、混沌の魔女に相応しい墓だと思った。

 楽しいことが好きで、派手なことが好きだった。

 でも、しばらく荒れ地に暮らせば、その静けさも好んだかもしれない。わたしの荒れ地は、どんな者でも脅かされない。その造るものも壊すものもない悠久の静寂の中にも、彼女なら面白い何かを見いだせたかもしれないから。

 姉が抱きしめようとしたので、わたしはそれをやんわりと拒絶する。

 妹らしくわざと稚拙に微笑む。わたしが損失を受け入れて動けるようになるまで、数週間か数ヶ月か、かかった。年上だからといって慌てて今すぐ、聞き分ける必要などない。

 姉はひっそりと、

「次会うときは、約束の大地ね」

 噛みしめるように言った。そして、

「名前はいらないわ。わたしにはわたしの、硫黄毒の名前があるもの」

「でしたら、これを」

 気丈に立ち上がる、姉の肘を持って手を貸す。

 わたしは首に下げていた指輪の中から、琥珀色の石にエメラルドが散りばめられたプラチナを、選んで進呈した。

「ライ麦のお姉さまには、これを」

 母が忘れ去ってしまった、一瞬で苦痛なく首を落とすための処刑道具の記憶だ。

 人種年齢に関係なく、きれいに骨を断つために、何千回も実験を繰り返したという。母から聞いたのではない。人間でさえ、良く知っている話だ。

「百二十三人を焼き殺した、お姉さまに相応しいと思って」

「おちびさん、わたしは硫黄を採ってただけなの。噴火は事故よ」

 硫黄毒の魔女は一応自己弁解したけれど、選択に異論はないのか、素直にそれを受け取った。

 ギロチンの指輪は繊細で、臆病なところがある。機会があれば悪ふざけしようと目を光らせている他の多くの指輪より、姉と気が合うだろう。

 パンから生まれた最初の娘は、混沌の指輪を付けた自分の左手をかざし、「ちょっと大きすぎるわね」と憮然とする。サイズのことで、石ではないことを祈る。削ったり形を変えると封印が壊れるかもしれないけれど、そんなことは予測がつくと思いたい。姉は硫黄にしか興味がない、魔女ではあるけれども。

「十六人に十四の指輪。名前を入れても一人分、遺産が足りないわね」

 姉は手近な引き出しを開けて、物色する。

 ここにあるのはパン作りに必要な材料と用具だけだ。独り立ち後に増築された店舗なので、硫黄毒の魔女はそんなことを知らない。そこにはないやかんや茶葉、あるいはテーブルクロスを探す。お茶を淹れ、わたしに何か着せるためだ。

 わたしは無駄な行動をとる姉を、ただ観察する。姉がどういうひとなのか、覚えておくために。

「何も残らなくても構いません。わたくし、野良という名前もありますので」

「エレノラは改めたんじゃなかったの?」

 ノラは、幼少時のわたしのあだ名だ。

 姉は虫だらけの小麦粉袋を蹴りつけて、ちょっとだけ次妻の合わない顔をした。


 荒れ地の夜に、月が浮く。

 ロンドンにたどり着いたときは、都会は不必要に照明の多い街だと思った。世界から夜が失くなってしまいそうで、不安に感じたものだ。

 それがいつしか街灯にも慣れ、当たり前のこととして夜に出歩くようになった。劇を観に行ったり、ちょっと足りないものを買いに深夜営業のスーパーへ行ったり。

 そうして今、目の前に広がる荒れ地の風景は、思い出よりも明るかった。

 満月の優しい丸が、煌々とヒースの野を照らしている。数え切れない星が、大小に瞬いている。漆黒と思い込んでいた深い濃紺の空も、天体の遠ざかるごとに赤みを増す輝きも、今まで見えていなかった。

 わたしは家に閉じこもり、夜を知らない子どもだった。

 科学だけが、盲目の素因ではない。

 自室に置いてあったワンピースを着て、姉と庭を見回る。

 視界が届く限りでは、周辺に変わった様子は見られない。しばらく手入れがされなかった庭の中は荒れていたけれど、柵の向こうも、いつもと同じだ。

 山の端には、雪が残っている。街中の春の往来は露ほどもない。きらきら光る白い原を、いつかも見た黒い獣の影が通る。

「あれ、何だかわかる?」

 牛乳も砂糖もないのでお茶を諦めた姉は、したくもない偵察に連れ出されて、手持ち無沙汰に庭に落ちている枝を拾う。かかとの高い靴では、土の上は歩きにくそうだった。

「ああ何か、影を食べるやつでしょう」

 枯れた茎が残るばかりの薬草園を乗り越えて、硫黄毒の魔女は垣根に手を置いて、目を凝らす。わたしは姉が、あれを知っていることに驚いた。何度も言うが、硫黄以外に興味がない姉なのだ。

「影を食べるの?」

「忘れちゃったの? いつだったかあなた、メリーがかじられたのを見て、泣いたじゃない」

 だから柵を作って、庭に近寄らないようにしたのだと言う。初耳だった。

 メリーことメアリアンは五番目の姉だ。

 動物好きで、愛玩動物を集めて歩いている。影食いの経験がトラウマにならなかったのか、と不思議だったけれど、そもそもきっかけは姉が、獣にちょっかいを出したからだったというから呆れる。

 一番上の姉がわたしを食い入るように見つめているのを、後頭部にひしひしと感じる。

「あなたがママの災難を、拾って歩く義務などないのよ」

 わたしはキンと冷えた故郷の空気へ、大きく口を開いて息を吐きだす。土と枯れ葉のにおいを肺いっぱいに吸い込んで、全身へ行き渡る想像をした。外気に冷やされた奥歯と、気管が少し痛い。

 魔女として生きるのに、混沌の名はむしろ阻害だ。

 好奇の目も、偏見も集める。実際にわたしは、人間からも魔女からも、外れた存在になっている。悪人でさえ、利用しようと企む前に、尻込みをして躊躇するだろう。

 それでも、わたしまで忘れ去ってしまったら、「わたしの」混沌の魔女はいなくなり、「皆が語る」魔女に置き換えられてしまう。

「母上さまは、捨てたかったわけじゃないんです。そこに置いて」

 ただ忘れてしまっただけなのだと、続けることができなかった。何を言ったところで、捨てられた子の、慰めにはならない。何の言葉が返ってくるのかはわかっている。それは言い訳にはならないのよ。

「本当に大事なら、忘れたりなんかしないものよ」

 人間が言う”気の強い赤毛の女”である姉は、諭すように呟いた。

 風が、冷たい。

「そうかもしれません」

 でも、どうしても大事だったから、忘れるしかないこともある。

 置いていかれるよりは、自分から手を離すしか、愛せないものだってあるのだろう。わたしの小さな、沼ネズミたちの記憶のように。

 でも、と続けるのは見苦しい。硫黄毒の魔女は、わたしに同意しない。魔女とは、そういうもの。

 花壇に溜まった落ち葉を蹴って、入隅に落とす。山になった様々な種類の葉の中に、傷んだリンゴが沢山混じっていた。

「でも母上さまは、おもわすれが下手だったから」

 息を振り絞って出した言葉は、ひょっとしたら姉の耳には届かなかったかもしれない。

 母が得意だったのは天才的なアイディアで場を引っ掻き回すことだけで、繊細な術式の組み立てに成功したことは一度もない。慎重に、念のためあれもこれも忘れようとした結果、失ったものが多かっただけだ。

 混沌の母だった。

 生まれてすぐの数年間は、顔も見たことがなかった。

 放浪に飽きてたまに戻ってきたかと思えば、姉の名前を間違えたり、家を半壊させたり、ろくなことをしなかった。姉たちは魔女に近寄らないように、何か教わっても絶対に使わないように、口酸っぱくわたしに言い聞かせた。

 一人二人と姉が巣立ち、とうとう家がわたし一人のものになると、顔を出す頻度が少しだけ増えた。姉の真似をして、名前を使って村の人間に魔法を売るわたしの背中を、ただ見ているだけだったけれど。

 何年も音沙汰なく、唐突に山ほどお土産を抱えて帰ってくる。

 心を砕いて選んだ十六個のお土産には、いつも余分があった。それはひょっとしたらまた、自分が忘れたかもしれない娘のための分。

 荒野の向こう、霧でぼやけた草原を、影を求めて黒い獣が渡っていく。

 山間から零れる月光が、荒地に長い影を投げかける。檻の様に立ち並ぶ枯れ木をすり抜けて、影食いは小さな点になった。そこへ、伸びた影がするすると飲み込まれていく。

 深く考えるのはやめよう。

 思いつめた肩の力を抜いて、出し抜けに自分へ言い聞かせる。

 ロンドンでも、そうやって暮らしてきたではないか。何事にも、白黒つける必要はない。色なんて、数えられないくらいに存在するのだ。

 もし捨てたものがあるのなら、誰かが拾えば良い、というだけの話だ。

 裸足の足の裏に、凍った落ち葉が抵抗虚しく溶けて崩れる。

 せっかく帰宅したのだから、夜中のことではあるけれど、真面目に落ち葉を集めた方がいいかもしれない。ほうきはダンジョン団地の部屋で、眠っている。手でかくのは、また入浴しなければいけなくなりそうで癪だ。

 感傷を断ち切って思案するわたしに、人間の真似をして寒さに腕を擦る姉が、ひっそりと頷く。

「あなたは昔から、賢いのか散漫なのか、わからない子だった」

 わたしはちょっと口角を持ち上げて見せる。

「元がパンですもの。くるみとイチジクが、頭の中でとっちらかっているのでしょう」

 料理は人類の英知だ。誇りにこそあれ、恥じるべき点はどこにもない。

 マスカラがすっかり溶け落ちた目の周り、鼻の頭を赤くした姉が、脱力して顔をほころばせる。


 二番目の姉の行方は分からないけれど、七番目はハプスブルク家で薬師をしていたというので、スペインへいくことにした。

 敷地の中を検分し、異常がないことを確かめて、わたしたちは家に戻って玄関に封をした。

 内側から札を張る。十五人の姉たちが帰るなら、居間に繋がる妖精の輪を通るだろうということで、外からは完全に閉鎖することにした。念のため、見えるところに警報の注意を書いておく。メモは虫やピクシーに食われないよう、アンバーグリスを塗りつけた。姉の硫黄薬も有効だけれど、においが籠るので今回は辞退する。

「でも今はもう、ブルボン家なんじゃない?」

 硫黄毒の魔女、姉が真剣に眉根を寄せ、首を傾げる。

 長子の責任感から、ライ麦パンから生まれた姉は、指輪を配り歩くのを引き継ぐとわたしに申し出た。

「わたくしが頼まれた、おつかいですので」

 言下に断った。

 偽った母の最期は、真相を知るわたしがついた嘘だからこそ正しい。姉に伝える気がないのなら、わたしが最後まで責任を持って遂行するべき「おつかい」だ。

 それに定職にも付かず、宙ぶらりんに暮らしているわたしの方が、何かと動きやすい。胸元に残る十三個の指輪と、まだしばらく付き合っていくのをわたしも望んでいるのだ。

 それにしても、家族と連絡を取るのは大変だ。

 序列を考えてまずは長女の硫黄毒の魔女を探したけれど、順番にこだわっては時間がかかりすぎる。加えて、それではすぐ上の、十三番目の姉に不公平だ。十四人全てにふたつ名があるわけではなく、意図して行方をくらませているのも数人はいる。

「姉さまたち、ワッツアップを持っててくれたら楽だったのに」

「まあ、ノラ。あなたから、そんな言葉が聞ける日が来るだなんて」

 ため息をついたのに、姉が感動しているのがおかしい。

 パン焼き部屋の煙突を覗き込んで、わたしはロンドンの自分の部屋へ、姉は在住するイタリアのアパートへ、それぞれ道を探る。平行線に付けた同質の魔力筋は、案外あっさり見つかった。

「ここから跳べば早いわよ。本当にいいの?」

 自宅への穴を広げつつ、姉が心配そうに質問を繰り返す。

 荒れ地に近い柳の木のうろから、スペインのサラマンカまで直線で繋がっている。そこから首都マドリッドへ向かえば良いと姉が何度も勧めてくるのを、頑としてわたしは受け入れない。

「ひとまず、ロンドンに戻らなくちゃ」

 母のふりをやめ、定まらなくなった口調で、わたしはきっぱりと言う。それから急いで、姉に笑顔を向けて見せた。いつもそうなのだけれど、わたしは口に出す前に、声がどう聞こえるのか考えてみるべき。

 糸を見つけて、引っ張る。その先にダンジョン団地の、あの気配がする。

 連絡先を知らせた姉は、挨拶もそこそこに平行線の向こうへ消えた。

 こういうところも、本当に母にそっくりだ。口には出して言わないけれど、煤にまみれたレンガの隙間、まだ細く繋がった道へ丁寧に会釈をする。

 あっと、気が付いて姉を呼んだ。

「忘れてたんだけど、アドリアンナ、いるでしょう。春鳥の」

「ベリー泥棒の?」

 辛うじて繋がっている空間の向こうから、姉が頓狂な声を上げる。時差の関係か、うっすら明るいイタリアの朝日が、糸となって穴から漏れる。煙突の反対、壁に小さく赤い滲みを作った。

 硫黄毒の姉の狼狽に気が付かないふりをして、わたしは続ける。

「そうそう、あれね。秋に南大陸で玉子を産むんですって。それでその殻がね、夏に食べた餌の色になるの。知ってた?」

 姉は答えない。突拍子のないわたしの言葉に返事ができないのか、不安定な妖精の輪がもう聴覚的には閉じてしまっているのかはわからない。

 わたしは一際大きな声で、ほとんど叫ぶように言う。友達に見せてもらった、魔法学校の教科書に書いてあったことだ。五番目の姉は、もう知っているかもしれないけれど。

「だから、うちに居た鳥は真っ赤な玉子を産むのよ。メリー姉さまに会うことがあったら、教えてあげて」

 返事を待たずにロンドンへ帰る。今度は、黒い空間を徘徊する必要はなかった。

 拉致された時と同じ、浴室がそこにあった。暖色の電球が室内を温かくみせている。それでいて、裸足にタイルの床は冷たく、鏡には水滴がびっしりついていた。

 魔力の乱れに気がついたダンジョンが、心配して触手を伸ばしている。

 シャワーカーテンに空いた平行線の穴は、段々と小さくなって最後にねじれた。一瞬だけ少量吐き出し、時間を巻き戻したように、それを吸い込んで、やがて見えなくなる。

「ママの遺産、あなたが一番多いかもしれないわね」

 最後に姉の言葉を、わたしの耳に直接吹きかけて。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。