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11. サイダーの客

 エッジウェアロードにあるパブに、時々行く。
 読めないアラブ文字看板を並べる商店街の、更に裏道にある店だ。二年くらい前に友人から話を聞いて、通うようになった。
 といってもオフィスからも家からも交通の便が悪くて、なかなか行けない。一ヶ月になんとか一回という、緩いペースだ。当然、常連と言うほどではないので、老店主に顔も覚えてもらえない。
 外見はよくある昔風の酒屋だ。
 金文字が厚みのある黒看板を飾っていて、それそのものが二階との間で段になっている。そこは花壇だ。僕が知る限り、ずっとペチュニアが植わっている。
 店は三叉路の角にある。
 道路に面する部分はどちらも大きな窓で埋まっており、九等分された枠の上部には、表面に丸い波が広がる古式な吹き板ガラスが数枚残っている。破損を逐一交換した九枚のガラスは、それぞれ製造年が違うらしく微妙に色が違って、モザイクになっている。その不均一さが愛嬌だ、と僕は思う。
 吊り看板もある。
 設置する金具は残っているが看板そのものはないので、機能しているとは言い難いが。強風で落ちてからつけていないのだと、いつか店の常連が教えてくれた。
 シェードは何故かいつも半分だけ開いている。ただ、僕の訪問が夜の十時頃に限られるので、ひょっとしたら夜間は雨除けのつもりで半開きにしていて、昼間はまた様相が異なるのかもしれない。
 外飲みの机はないが、窓枠が物置きにできるよう、外側にかなりの幅がある。でもあまり、そうした客を見たことはない。
 客そのものが少ないのだ。いつも数人の老人客が、奥の席を陣取ってカードでもしながら、時々思い出したようにエールを嗜んでいるばかりだ。
 メニューは少ないが全て手作りで値段も手頃だから、店が流行らないのは結局のところ、誰にとっても便利な位置にないからなのだろう。イスラム教徒の多い街で、昔ながらのポークパイを出し続ける頑固さも、また関係あるのかもしれない。
 店内は、ごく普通だ。
 長いL字カウンターは重厚な木製で、カウンターにはサーバーがあり、背面にはボトルが並ぶ。一部の天井の棚からは、大量のワイングラスが吊られている。全体的にアンティークの圧迫感はあるが、雰囲気そのものは悪くない。
 唯一、初見で違和感を覚えるだろうことは、扉を開いてすぐ目に入るL字カウンターの角が、不均等に切り取られているところだろう。
 前知識なく見たら、人の流れを切らないための工夫と推測するのだろう。北側カウンター側の席には机が切り取られてほとんどないが、一見不審なところはない。台もそこだけ高くなっていて、使いづらいのは確かなのだ。
 そして自然と、着席を避ける。
 けれど僕は、その場所が空けられているのは別の理由からだということを知っていて、その原因をぜひ見てみたいと、ずっと思っていた。
 それがとうとう、先日叶ったので、聞いてほしい。
 話に聞いていた通り、午後十時十五分頃のことだった。
 ちなみにその日は小雨が降っていたのだけれど、天気はあまり関係がないのだそうだ。決まっている曜日もない。知られている限りそれは気まぐれに、やってきてただ通り過ぎるものらしい。
 この日はギネスを半パイント頼んで、ちびちび口に運んでいた。
 スタウトはあまり好まないので、どうしてそんな注文しようと思ったのか、自分でもわからない。ひどく重い一口目で後悔して、飲み終わったら即座に帰ろうと決意した。腹は減っていないから、つまみもなし。手持ち無沙汰な夜だった。
 唐突に、いつもなら静かに洗い物でもしているマスターが、わざわざカウンターの外に出た。そして僕のすぐ隣、机が殆ど無い北カウンター席に、黙ってグラスを置いたのだ。
 そして戻るときそっと、
「そちらには、目を向けないほうがよろしいですよ」
 と囁いて、また店内にひっこんでしまった。
 正しく友人が語った体験通りだったので、僕は興奮を抑えることができなかった。
 とうとうその時が来た、と感極まって、そいつの顔を見てみようか、とすら思った。でもマスターの忠告を無視するほどバカでもない。というか、正面から向かい合う度胸がなかったので、まずはこっそり、足元を確かめようとした。
 ギリギリ視界の隅にある、入り口の床タイルを盗み見る。
 それから後は覚えていない。
 気がついたら、同じ姿勢で座ったまま、びっしょり汗をかいていた。
 震える指先がカウンター板を叩いて小さく音を立てていたが、どうやって止めれば良いのか、そもそもどうして震えているのか、さっぱりわからなかった。僕はちっとも寒くなかったし、先程の興奮は一瞬でどこに行ったのか、不思議なほど平静そのものだった。
 店内の様子ーー奥のテーブルではいつもの老人たちが静かにカードを興じていたーーもいつもどおりで、グラスを下げに再び店主がやってこなければ、うたた寝に夢でも見たと思ったかもしれない。
「覚えてないですか、それは運がよかったですね」
 物覚えの悪い子どもを見る目をしたマスターが呟き、僕はそれが現実であったことを知り、恥じ入って項垂れる。
 老マスターの説明では、そいつを見て恐怖のどん底に落とされるか、会ったことを全く覚えていないか、五分五分なのだそうだ。
 見るというのも正しくない。
 その姿を認識した者は、知っている限りいないという。抱く感情も人それぞれで、絶望という人もあれば、虚無になると主張する者もある。悲観的であることは変わりなく、どんなつわ者も一瞬でどん底の気分に落とされるらしい。
 ただ、その憂鬱もそいつが店を出ると、瞬時に消え去るということだった。
 実際、記憶がないままの僕にも漠然とした負の後味が残ってはいたのだが、それはそういう事実を知っている、という感覚だけで、心はついてこない感じが本当に不思議だった。
 僕は以前から、もしそいつに会うことができたなら、マスターに頼み込んで出したサイダーを飲ませてもらおうと思っていたのだが(なんでも、リンゴ酒はすっかり気が抜けて、水みたいな味になってしまうらしい)、すっかり忘れて帰ってきてしまった。
 またそいつを見に行ってみるかはどうかは、まだ迷っている。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。