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(22)4章21節-25節【信仰を持ってからが始まり】

(マルコによる福音書‬4章21節-25節)
21また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。 22隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。 23聞く耳のある者は聞きなさい。」
24また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。 25持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」


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前回の種蒔きの例え話から続いている話。

種蒔きは、蒔かれた神の言葉を受け入れる心の状態についての話だった。

さて、今回は「ともし火とはかり」について。

ともし火は何かを照らすためのもの。
ともし火が隠されていたら何も照らすことはできない。ともし火は信仰のこと。つまり、イエスを知った人がどのようにあるべきかを例えているのだ。隠れないで、出ておいでーーと言っている。

ともし火の役割は何かを照らすこと。見えなかったものが見えるようになる。聖書の言葉通りに、秘められたものが公になる。

ともし火を照らすボクなりの方法は、
「イエスさま大好きーー」ということだ。

続いてはかりの例え。
信仰を隠し続けて、使うことがなければ無くなってしまうかもしれないと書かれている。ちゃんと使おうねと言われている。
そして、使って慣れるとさらに与えてくれる。その時ごとに必要な愛をボクたちが受け取れるだけ与えてくれる。

イエスと一日一日を共に歩みながら、その愛をもっともっと受け取れるようになっていきたい。

個人的に思ったこと。
この時代の背景には、キリストを信じるものは迫害されていたということがあると思う。現代は現代で信仰を受け取るのに、また違った反応がある。どちらにしろ、ただただ素直にまっすぐに受け取り、誠実に丁寧に与えられた信仰と愛に応えて生きていきたい。

信仰はシンプルだ。

受け取り、それに応える。


ただし見よ、見いだしたことがある。 神は人間をまっすぐに造られたが 人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。

‭‭コヘレトの言葉‬7章29‬節


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