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これからのゆたかさを想像することで、しあわせの最大値について考える:Fo[r]est conscious-豊

そもそも、人はいつ[ゆたかさ]について考えるのだろうか。わたしが[ゆたかさ]について考えた時のことを思い出してみる。

▶旅先でその国に暮らす人のリアルな生活環境を見たとき。

▶大晦日や新年、誕生日などの節目。

▶震災やコロナ禍のように、未来について不安を感じたとき。

... と日常的に考えるというよりは[きっかけ]がないとなかなか考えないことなんだな、とあらためて思った。

充実した毎日を送っていると満たされているなとしみじみ[ゆたかさを感じる]ことはあるけれど、だからといってそれ以上深く考えることはない。

それほど[ゆたかさ]はわたしたちにとって[あたりまえ]の存在になっている。あたりまえなことすら、意識しないくらいに。

それが悪いとはまったく思っていないし[ゆたかさ]を追求して生きてきたからこそ人間は進化できたのだと思う。不便なく生きられることについては、すごく感謝している。

世界はこんなにも[ゆたかさ]で満たされていると思える一方で[満たされない人]がいることも事実。その原因のひとつは[物質的なゆたかさ]ばかりを追い求めてきたからだと個人的には思っている。

そして、それなりに発展して便利になってきているのに誰かが決めた物質的[ゆたかさ]のものさしで測られた瞬間に突然ゆたかではないと決めつけられてしまう国があらわれる、おかしな世界。

モノが与えてくれる[ゆたかさ]は確実にあって、それはそれで楽しんでいる。知人が育てた食材を調理して、知人である作家さんがつくっている器でごはんを食べる時にはすごくしあわせを感じるし、大好きな時間でもある。

パソコンや携帯電話で、インターネットを通じていつでも遠くの友人や家族と連絡が取れたり、世界中がほぼ同じタイミングであたらしい情報にアクセスできるのも本当に便利。

けれど、モノが与えてくれた過剰な[ゆたかさ]は人間が[自分の力で何かをする]機会をことごとく奪い、頼りすぎた人たちを怠け者にしてしまった一面があるのではないかとも思っている。

本当の問題は[モノ]ではなく、モノが与えてくれた[便利さ]に頼りすぎたことで人間が[依存的]になってしまったこと。

こういうものがほしいと思ったら買えば済んでしまうので手は動かさない、何でもネットで調べれば出てくるので頭は使わない、そのうちに、なにか買うにしても自分の意志ではなくリコメンドに任せる、なんとなくみんながいいといっているものがいいと思う、自分の意見ではなくてネットで見た誰かの意見を自分の意見のように思ってしまう... と、どんどん主体性がなくなっていく。

何でもそんな風に決めているうちに、自分で選んでいないことにすら気が付かないまま、満たされない気持ちだけが溜まっていく。

モノに頼るのが悪いわけではなく、ただ、知らないうちに自分で自分を満たされない状態にしているということに気づくことが自分にとっての[ゆたかさ]を手に入れるために必要な最初のステップになるんじゃないかな、と思った。

それから、ここは便利さに頼ろう、ここは自分でやってみよう、と自分なりに試行錯誤してバランスを取っていく。最適なバランスもひとりひとりが違うから、それをまた誰かが決めたものさしで測ろうとするとそれはそれでまた[満たされない人]が出てきてしまうけれど。

人は、誰かのために何かをすることを優先すると、上手く行かなかった時にはついつい誰かのせいにしてしまう。逃げることは悪いことではないけれど、人のせいにしてしまうと解決できないまま誰かが悪者になってしまう。

そうならないように、誰もが自分の頭で考えて、時には手を動かし、時には便利なものにサポートしてもらいながら、自分にとってちょうどいい感覚を自分で納得して選んでいくことが[ゆたかさ]に繫がるんじゃないかなと思う。

物質的には[ゆたか]ではないといわれる国の人が[ゆたかさ]で満たされているのは、きっと自分にとってちょうどいい[ゆたかさ]を実現できているからなのではないかな。

Stayhome中に2011年の東日本大震災に起こったことと、今起こっていることについて考えていて、気がついたことがあった。

2011年は自然災害や原発のことで命の危険を感じて、将来のことも不安に感じることはあったけれど、自分は直接被災していないこともあり逃げ場があった。

その時に出てきた正直な問いは[なんのために生きるのか?]だった。一瞬にしてすべてを失ってしまった状況をみて、いつすべてを失うかわからない人生を悔いのないように生きるにはどう過ごすべきか...そんなことを考えた。

わたしを含めたくさんの人がそのように考えた結果なのか、震災後は[誰かの役に立ちたい][家族のために時間をつくりたいから、家と職場が近いほうがいい]などライフスタイルに大きな変化があったように思う。

今振り返ると震災前と後では何が変わったのかがよくわからなくなってしまった... スタイルによって外側だけが変わったとしても、内面の変化はほとんどなかったように思えたから。

そして2020年。未知のウイルスの出現による命の危機がいつまで続くかわからないという不安、たくさんの情報が溢れかえり何が本当なのか信じられなくなり、募る不信感。そして世界のどこにも逃げ場がないという状況。

Stayhomeで家から出られない期間は[自分は何が大切で、これからどう生きるか?何に戻りたくないか]先がわからない未来ならば、今本当に必要なものだけを選んで、自分が本当にやりたいことをしよう... と、これからの命の使い方について考える時間になった。

誰かの力になりたいという気持ちがあってボランティア活動をしてみても、満たされていない自分のまま他人を優先して何かをした時に、もし喜んでもらえなかった場合にはその気持ちが自己犠牲に変わってしまうことがある。

けれど今は世界中の人々が当事者で、みんなが[じぶんごと]としてコロナ禍に向き合っている。毎日が不安で眠れない人もいるかもしれないし、ピンチはチャンスと今だからできることを見つけて前向きに新しいことを試している人もいるかもしれない。

同じことをするにしても[他人軸]で考えることと[自分軸]で考えることには大きな違いがある。

わたしはこの数ヶ月で自分なりの[ゆたかさ]にたどりついた。それは、生きることは愛することで、自分自身が愛であり文化でありアイデンティティそのものであるということに気づき、わたしはわたしでいいんだと心の底から思えたこと。

物質で満たされた時に感じる[ゆたかさ]とは違って、何かに包み込まれるような感覚で満たされていくのを感じる[ゆたかさ]だった。

それぞれの[ゆたかさ]の基準がまさに今めまぐるしく変化していて[ゆたかさ]は物質だけでも心だけでも満たされないし、いくらたくさんあったとしても誰かに与えられるだけでは満たされない... と思っている人は多いと思う。

わたしは、大事なことに[気づける力]こそがこれからの[ゆたかさ]であり、誰もが自分自身の気づきによって自分らしく生きられるようになればそれぞれが[自分なりのゆたかさ]を自分の力で実現することで満たすことができると思っている。

自分なりの[ゆたかさ]が循環する未来を想像しながら、個が個でありながらもお互いをを尊重し、みんなが同じ方向を向いて進んでいけるような世界を創造していけたら素敵だな、と思った。

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