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「分人」という考え方があれば、「自分らしさ」はいらないのかもしれない

「自分らしさ」を探すこと、「自分らしさ」をもって生きることは、ここ数年、トレンドのように感じる。もしかすると、僕個人がそこにアンテナを張っているからかもしれない。

その答えはわからないけれど、事実として、過去に「自分らしさ」を考える機会があった人や、今現在も「自分らしさ」を追い求めている人が存在するのは確かであろう。

特に、日本においては2011年の東日本大震災が起きる前後では、「自分らしさ」のイメージや考え方が異なる気がしている。また同時に、個人が情報発信することが当たり前となったSNSの時代において、「自分らしさ」を表現するのは自然なことになったのかもしれない。

「自分らしさ」とは何だろうか?

細胞が異なると同じように、人によってその答えや定義は異なる。言葉にすると同じでも、感覚レベルまで同じということはない。そのため、「自分らしさ」の定義を考えることにあまり意味はないのかもしれない。

それでも、何かわからない感覚的なものだけど、「自分らしさ」は多くの人が欲しい存在であるし、追い求めたい存在であるし、発見したい存在である。

僕もつい最近まではそんな感覚が強かった。でも、最近になって「分人」という考え方に「自分らしさ」の答えがあるのではないかと思っている。きっかけは単純なことで、自身が身近にいる人たちのことをふと考えていた時に、人単位で見ると一人ひとり、接している自分というものが異なることに気がつく。

※身近にいる人たちのことを考えていた時に書いたnoteはこちら


接する時の意識、姿勢、態度、言動はもちろんのこと、その人との関係性、経験、共有してきた時間や出来事など、どれも異なる。関係性が異なるということは、その人と自身の立場も異なる。そうやって関わる人との関係性を紐解いていくと、こんなことに気がつく。

「自分という存在(役割)は、多様なんだ」ということに。

Aさんと自分。Bさんと自分。Cさんと自分。

身近な人を誰でもいいので、3人思い浮かべてみる。そして、その人の性格や特性、その人との関係性や経験などを簡単に考えてみてほしい。

おそらく、3通りの自分の存在(役割)があるのではないかと思う。言い換えると、人によって自分というものが3人いるのではないかと思う。

そう。これが「分人」という考え方と僕は定義している。

ネットで「分人」と調べると、こんな本があった。

私とは何か――「個人」から「分人」へ

「私とは何か」は「自分らしさ」を、個人とは自分らしさの絶対的な答えのことを表しているように見える。

そこに「分人」という考え方を入れると、「答えを探す旅」から、「自分と相手の関係性の中における自分の存在(役割)を発揮する旅」に切り替わる気がする。

存在(役割)と、役割を入れているのは、「存在」というと漠然とした表現でよくわからない。もう少し柔らかい表現である「役割」という、その人との関係性の中で自分がどういうことが求められていて、どういうことをその相手に提供できているかという行動レベルで表現できる言葉のためである。

また、「探す」と「発揮する」と分けたのも理由があって、「自分らしさ」は、そのベクトルが常に自分の心や頭に向く。逆に「分人」は、相手がいることが前提となり、ベクトルも自然と相手に向く。

この話は、どっちが良い悪い、こっちが正しい正しくないの論点ではない。「自分らしさ」を考えることや追求することは、人生そのものの目標にもなるし、発見できた後には心強い武器として力を発揮してくれるのかもしれない。

ただし、絶対的な答えは見つからないと思うから、答えを求めているモードなら求めなくていいんじゃないと。それより、その過程で出会う人たちや身近にいる人たちのために自分ができることやその人たちに求められていることを、一人ひとりにカスタマイズしてアレンジして提供して、自分の存在(役割)を発揮する「分人」という考え方を持つことを勧めたい。

ここからは僕が大事にしている考え方でもあるのだが、自分を一つの答えで定義するような、枠にはめるような感じは、楽しくないと思う。決められたレールや人に言われたことだけをやるのは、僕は苦痛だと感じてしまうので、自分の人生は自分で考えて決断して行動していきたいと思っている。

「考える」ということは、その時、その場面で違うことが目の前で起こっている証拠であると思う。そして、違うことに向き合うためには、自分の思考も行動も常に柔軟に変える必要がある。それは人、一人ひとりとの向き合い方も同じだと思う。

同じ人なんて一人もいないし、その人との関係性も多種多様である。その違いを理解して、一人ひとりと向き合って、自分で考えて行動する。その過程で「自分らしさ」は十分に発揮できているのではないかと思う。

考えることは、「自分らしさ」ではなくて「分人」。分人の考え方を持って、一人ひとりに対して提供できる価値(結果)が「自分らしさ」。

もし「自分らしさ」の呪縛的なものにかかっている、「自分らしさ」でモヤモヤしている人がいれば、「自分らしさ」をアンインストールして、「分人」という考え方をインストールみてほしい。思考と行動のベクトルが変わるかも...

「分人」という考え方があれば、「自分らしさ」はいらないのかもしれない。というお話でした。


※サムネイル写真:Image by Gerd Altmann from Pixabay