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スパルタとアテネ〜ペロポネソス戦争〜

スパルタ教育の由来となった国


ドーリア人で形成されたポリスであるスパルタはアテネのライバルとして

長年争いを繰り広げており、スパルタ教育の名としても現在まで

知られています。

スパルタではリュクルゴスの制と言われた厳しい教育制度と

軍国主義を採用しており、男性市民5000人の人口で

7万人もの人々を支配していました。

具体的には征服した土地から獲得したヘイロータイ(奴隷身分の農民)5万人、

ペリオイコイ(異民族を従属させて商工業に従事させた周辺民)を2万人、

合わせて約7万人を5000人が支配している状況なのですが、凄まじさと

同時に反乱による崩壊の恐れも感じる程の差となっています。

そのため、スパルタ市民はヘイロータイやペリオイコイにいついかなる時も

なめられないような状況を作るため、軍国主義でリュクルゴスの制による

厳しい訓練を行い、反乱を抑止していました。




アテネとの比較


スパルタもアテネもギリシア人のポリスではありますが、

前回の記事で紹介した通り、アテネはイオニア人の集住活動で成り立ち、

スパルタはドーリア人の征服活動によって形成されていました。

奴隷制に関しては両国とも基盤としており、重装歩兵として国の防衛を

している市民(男性市民)が民会を開催する民政が採用されていました。

しかし、民主政が発展したアテネと違い、スパルタは少数の支配層が

権力を維持し、民主政の発展には至りませんでした。

また対外政策を見ると、スパルタは徹底した鎖国政策を採用していたため、

アテネのようなギリシア文化の源流となるような文化が育つことは

ありませんでした。

両国とも軍事大国でしたが、アテネは海軍主体に対して、

スパルタは陸軍主体でした。




ペルシア戦争


アテネやスパルタなどのポリス社会が発展していた頃、東では

アケメネス朝ペルシアという大きな国が存在していました。

彼らはギリシアにあるポリスと違って、都市国家ではなく広大な領土を

持つ国家として強大な軍事力を有していました。

そのペルシアが支配権を持っていたイオニア地方のギリシア人植民市が

ペルシアの支配に不満を持ち、反乱を起こしことからペルシア戦争は

始まります。

構図としては、アケメネス朝ペルシア対アテネ・スパルタ等の

諸ポリス連合軍となっており、50年間で4回にわたって展開されました。

第1次は暴風雨のため、本格的先頭には至りませんでしたが、

第2次のマラソンの語源ともなるマラトンの戦いに始まり、

第3次のテルモピュライの戦いではかの有名なレオニダス王率いる

スパルタ陸軍が奮戦しましたが、国王も戦死し、ペルシア軍に

敗北しました。

またサラミスの海戦では、テミストクレス率いる海軍主体のアテネが

三段櫂船を用い、ペルシア海軍を破ったことでギリシアのポリス国際社会の

主導権を握りました。

その翌年のプラタイアの戦いでアッティカ地方に侵攻を試みたペルシア陸軍

をスパルタの将軍パウサニアスが撃退し、ギリシア連合軍の勝利を確定的に

しました。




ペルシア戦争の完全終結からペロポネソス戦争まで


本格的戦闘は前479年に終わりましたが、小競り合いは続いていました。

アテネはペルシアの来襲に備えてデロス同盟を結成し、その間に国内で

ペリクレスによるアテネ民主政が完成され、全盛期を迎えました。

対してスパルタは、デロス同盟の動きをギリシアの主導権を握ろうとして

いると解釈し、ペロポネソス同盟を結成したことで両者の関係は再び

悪化しました。

そして前431年、スパルタの王アルキダモスが率いるペロポネソス同盟軍

は、アテネの本拠であるアッティカに侵攻したことを契機に

ペロポネソス戦争が始まりました。

両軍の戦いは27年間にわたって続き、ギリシア本土とエーゲ海全域で

繰り広げられたことから、古代地中海世界の世界戦争といえます。

戦争当初、アテネではペリクレス指導のもと、海軍力で反撃を

試みましたが、開戦2年目にペスト(黒死病)の蔓延により人口の3分の1が

失われ、ペリクレス自身も罹り死亡してしまいます。

その後、1度講和は結ばれますが、8年しか続かず、ついにはスパルタが

アケメネス朝ペルシアと同盟を結んだことで(スパルタ=ペルシア同盟)

前404年にアテネが全面降伏し、戦争は終結を迎えます。




ペロポネソス戦争の影響


およそ27年にわたる戦争によって市民が没落し、ポリス民主政の基盤が

崩壊しました。それにより、今までは市民による重装歩兵が主体でしたが、

傭兵に移行していきました。

全面降伏したアテネは力を失い、デロス同盟も解体、覇権はスパルタに

移りました。

それ以降のギリシアの諸ポリスにはしばらく政治指導者の傑物は出現せず、

衆愚政治の時代に入ります。

また、ペロポネソス戦争から約1世紀後の前338年に起きた

カイロネイアの戦いによってギリシア北方にあるマケドニアによって

スパルタ以外のギリシアが制圧されたことでポリス社会の崩壊が

決定的となりました。

上記の戦いは、マケドニア軍率いるフィリッポス2世対アテネ・テーベ連合

軍という構図で、勝利したフィリッポス2世はギリシアのポリスを

コリントス同盟という形で統合し、支配下に治めることに成功しました。


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