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ごみ箱でいることを、もうやめます。ーー成長小説・秋の月、風の夜(100)

四郎が軽めに夕食を終えると、宮垣は食事中の自分の膳を片付けてしまった。
「そっちに腰かけてごらん」と壁際を指さし、「こいつに着替えちまえ」と、やわらかいコットンのハーフパンツとTシャツを投げてよこす。

着替えた四郎が壁際へよると、宮垣は「よっこいしょっと」と片膝をついて、四郎の腰骨に右手をぐいっとかけた。

(あっ……骨盤の内側か……)四郎は切なそうな表情で、目をつむった。

「なんだ青年、往生際がいいじゃないか」
「覚悟は……してきました、あっ……ぁ……っ、先生……」
宮垣はいったん手を離して、「力むな。リラックス」と、四郎の背中をぽーんとはたく。少しは息が通った。もういちど、がしっと骨盤の内側に手をかける。
「……無理です……うっ……あ、あっ」四郎はぎゅうっと自分の腕をつかんだ。

「不必要に力むやつだな……。今はしょうがないがなー。なんとかならんか」宮垣がごちる。

「ほ、ほかの人は力まんとおれるの? こんな……」と、歯をくいしばりながら四郎が言うと、宮垣は、ははっと笑った。

「さあなあ、ほかのやつの骨盤内側なんて、触ってやんねえから知らないよ。

……おやじさんにもおふくろさんにも、甘えられなかった、よるべのない心をうつした体をしてる。
だからひとりぼっちで立ち向かわないとダメな前提になって、緊張して力みあがってしまうんだ。それだと日常所作に、不安が出てつけこまれる。

かわいがられる素質はあるが、かわいがられるとなめられるは全く別物だからなぁ。

お前が困ってるのは、よるべなさを知らぬほんとの自分自身が、徹底的に人を恐怖に叩きこむその先にやっとあるので、今まで誰もその調整を行えなかったことだろう。

武芸者はね。そんなところを人生の途上で、どこかのじいさんやばあさんに、育てなおし克服させてもらうしか、ないんだ。生まれそこね、育ち損ねたならば、大人になってから、赤ん坊みたいに真っ裸で一度ばらして、組みたててみりゃあいいんだよ」


年寄りのかっぱ……四郎は、あの悪夢を思い出した。しなびた、おだやかなかっぱだった。

宮垣が、四郎に自分の胴をかかえさせた。「力むぐらいなら、すがっていろ」

がじゅまるの大木のようなどっしりとした胴……
人間の体温はあついのだ、と頭の隅でかんがえた。
組打ちの稽古のときにそう感じることもあったが、忘れ果てるほど途方に暮れていた。

宮垣の手指が坐骨の右へりから、ぐっと奥内側をおしていく。
そこに溜めておいてはいけない、にごった何かの根元が、ぼわっとあぶりだされてずずーっとねばりつきを絡めながら抜けた。「ああっ……おうっ」四郎は、なるべく、声が体の外へと抜けるように口をあいた。

胸・腹・頭にざわざわしているのは、あれはご先祖さまたちの末端部分にすぎなかった。「根がのこっている」といった宮垣のことばをふいに理解して、四郎はおぞましさに震えた。

自分の声じゃない、血のつながった古いふるい、こんがらがってしまったものども。生まれてきた元へ還るのを忘れ、うろつくうちに、そこらにおちていた下劣な衝動や歪んだ価値観を、さらにまとわりつかせてしまったものども。

どうしようもなくなって、自分たちのゴミ箱にするいけにえの赤ん坊をひとり、嶺生(ねおい)の家に送り込んだご先祖さまたち。

人間は、弟の徹志やいとこの頼子のように、ちゃんとかわいがってもらえるものなのだ。俺は人間の赤ん坊じゃなかった、化け物連中のお道具だ。
きつすぎる目、深刻すぎる生真面目さ、ヘドロのような情念と欲望まみれの先祖を入れておくための、肉と骨とで作った壷のようなもの。自分の意思はなにもない。

ただ母親の腹に流れ着いて、外へ出され、中身といっしょに世間をただよって、数かぎりない化け物を体の底におさめたまま、早めにあの世に帰るだけ。

学ぶことや就職や仕事への期待も、好きな相手に恋をしたり結婚したり子を作ったり家庭を営むことへの期待も、何もなし。警察沙汰を起こすことなく、はやめに死ぬように。ただそれだけ。


四郎は、自分ののどを通してわめいて出て行く、それらの存在の声をききながら、こんどは自分の声で、自分のきもちを体の外に放り出していた。

「俺のなかに、誰もおらんようになったら」四郎は声をあげた。「俺は何して生きていいか、わからへん」
四郎はそんなことを口走って、自分が意外なことを思っていた、とはじめて気づいた。
こわくて、こわくて、仕方がない。岐阜弁で “おそがい” という感覚……強烈な恐怖。それが、湧いて、湧いて、とめどなく自分をのみこむ。
「きっと俺は、中身からっぽになったら、何してええかわからずに、うずくまって無駄なことばっかりしてまう。俺、ただのごみ箱やもん、ただの壺みたいな入れもんやもん」……えっ、そんなことを、自分は、思っていたのか。

「もう、やめてくれ、先生――おそがいで、おそがいでやめてくれ!」

(気づかん恐怖が、体の底にはいくつもいくつも、眠っとるもんなんやな)
わめきながら四郎は、頭の隅でそんなふうに冷静に考えていた。
わめいている自分と、宮垣の胴にすがっている自分と、冷静な自分とは、まったくの別人のように感じた。

宮垣は決して手を緩めなかった。太い手指が、今度は左の坐骨恥骨の内側にくいこんで、宮垣は語りかける。

「ご先祖さんのだまくらかしに乗るなよ、いいか四郎。
それはお前のどまんなかの、ほんとの思いじゃないんだよ。ご先祖たちがためた恐怖だ。自分たちをぬくぬく中に入れとくように、お前をまるめこんだ側の理屈に、だまされただけだよ。

だいいち、ごみ箱や壺でいさせるつもりなら、このすんなりした手足も校正の目もよく戦える肝っ玉も素早さもいらねえや。お前の用途は武芸者としても社会人としても、もっともっと毎日を楽しみに、よく生きることだよ。

霊体は人間の体の中にいれば、うまいもんを食べられるし、気持ちのいい体験もできる。そうしてたいんで、お前が赤ん坊の時から、だまくらかしてまるめこみやがったんだろうよ。

大丈夫だ、こんなにいいもんいっぱいもらってる、強い四郎はこれから先が楽しいんだ。嫌なことを自分に無理じいしないと思い定めて、体をいじめず養生してやれば、やりたいことは出てくるもんだ」

落ち着いたものだ。

四郎は汗だくで朦朧としながら、腹に響く宮垣の声を心できいていた。


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マガジン:小説「秋の月、風の夜」0-99

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もくろみ・目次・登場人物紹介



「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!