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泣いてンだけど笑うよな、このしけった匂いがさ。--成長小説・秋の月、風の夜(111)


四郎は、自分のことにもかかわらず、案外けろりと言った。
「そこはさ、宮垣先生、この情報が渡っとればこの人安心かなーとかいう感覚は、ない人やでさ」

「なくてすむのか!? それでいいってのか」高橋は悔しそうに荒い息をつく。

「お前ほど気はきかん人なんやろう。気をつけて内緒にしてくれとった有馬先生に、宮垣先生からバラされて、ぎょっとしたんか」

「あ、ああ、それはある」
それだ。まさにそれだ。
「どう思ったんや」
「とりかえしがつかないと思った」高橋は左手のこぶしをぎぃっと噛んだ。「こわかった」

先祖が女の首を折って殺しまくっている、なんて話が会社の中に知れ渡ったら、いまでさえ居心地の悪い四郎がどれほど苦しむか。へたをすると、勤め続けることもできなくなる。

人の口に戸は立てられない、とは言われもし、知ってもいた。それが限りなくおそろしかった。

居心地が悪いならさっさと独立してしまって、業務デザインを自由にいじくったほうがいい……と言ってやることができないほど、高橋はすくみあがったのだった。
おばについて言われていたこと。おじについて言われていたこと。それで両親の激しい口論が絶えなかったこと。小さいころどっぷり漬かっていた状況のフラッシュバックに、まさにパニックになったのだった……この時点ではまだ、高橋はそれに気づいていなかったし、四郎も察していなかったが。

四郎は高橋にそっと言った。「あのな、俺に一生懸命になってくれて、ありがとな。あのな。俺、ひとりで凶暴になって、みさかいのうなったらどうしようてって思っとったとき、えらい苦しかった。今お前がその気持ち、分けて持っとってくれるもんで、すごい楽なんや。その分苦しめとったら、ごめんえか」

「お前が謝ることじゃない。でも苦しい、それは自分の反応だから……こんなに消耗しないでお前の役に立ちゃーいいのに、僕はなんてばかだ」

「なんでやろ」
「お前が大切にされてないと、僕動揺しちゃうんだな。……いやそれだけじゃない、宮垣のジジイはとにかく僕にとってきっつい言葉を反射的に選ぶのがうまいっていうか」
「ほんとに?」
「そうなんだよ中途半端とか迷惑とか面倒見きらんとか。正論だけどそういう言い方する? って。刺し方がぐっさぐっさ」

「そうなんや……」
「あっ……そうだ。もしかすると僕やきもち焼かれてんじゃないか」高橋は心もとなそうに、しかし仮説を出してみた。
「ほんとに?」
「そうかもしれない、お前と僕が親友なのが気に入らないのかもしれない」

「やっぱりそうなんや、俺変やなあてって思っとった。高橋のこと時たま、けなしゃーすんやて。宮垣先生、俺に自分のことだけ尊敬してほしいんかな」

「なんてことだ! なんて子供っぽいんだ」
子供っぽすぎてあたらない、ということは、あの人に限ってはなさそうだ。四郎も高橋も、目を見合わせて同じことを考えた。悪ガキのまま還暦をすぎてしまったら、きっとああなる……

「あっ、宮垣先生親友ほしいし、なつく子ほしいんや。
お前みたいにええ仕事したいし、お前みたいに努力が形になるの、うらやましいんや。お前が追いまくられるように生き急いどるのがわからへんでさ。
お前がどんなに必死こいてあれこれ話し合いながらつないどるんかわからへんでさ。結果だけみてうらやましいんやないか」

四郎はささやくように、けれどもたぶん正解に行き当たったしっくり感とともに話した。
ささやくように、けれどもどこか、はずむように。

そうなのだ。高橋は ”苦しんでいることがわかりにくい” のだ。四郎や奈々瀬のように気配や本質を見抜く人間には、これほどわかりやすい必死の努力家はいない。けれどもサービス業に従事して、子供のころからおばとおじの看護の一端を担い、過剰適応を常としているがゆえに、高橋は ”努力のあとを見せない” 習慣を無意識に自分に強いていることに気づかない。
どれだけ切り傷や縫いあとがギザギザしていようと、それらの切り傷や縫いあとをくるんで隠すことまでを、無意識に必死でやり通してしまうのだ。

四郎は(こんなこと喜んでええんやろうか)と気持ちをふるわせた。

自分だけが親友をわかってやれる。親友は自分の新しい師匠になりそうな人に理解されない。それどころか世間の誰ひとりとして、親友がどれほど傷にまみれてあえいでいるかをわかり得ない。自分にはわかる。
それを悲しまずに喜んでいる自分はおかしくないのか。この感情を友情と呼んでいいのだろうか。

高橋は顔を覆った。「四郎……僕は腹の底の感覚を切り離してるわけじゃない、それはずうっと僕をさいなみ続けている……僕は電話が億劫になるほどあちこちで我慢してしまってる、メンテナンスが追っついてない……宮垣先生にえぐらえるのがつらい。な、なごやかに話がしたい、傷をぐさぐさ刺されたくない……!」

ついに億劫(おっくう)さの正体が分かった気がして、高橋は深い深いため息をついた。親友がいてくれるから、みんながいてくれるからという承認や愛情を燃料に、やりきろうとしているあらゆること。

宮垣が格闘家の本能でもって、その一点に向かってまるで子供っぽいボディーブローをかけつづけているそのことも。承認や親友や、助けになるものをはぎとって、メンテナンス不全にまっすぐ向きあわせるような荒療治に。

高橋はただ泣いた。やっといきさつの正体がわかって、安心できる泣き方が戻ってきたと思った。
四郎が途中でこっそり給湯室のダスターを持ってきてくれて、それは四郎がゆすいで絞ってくれたらしいが、微妙にしけった匂いがした。
高橋はダスターで涙をふきながら、その微妙すぎるしけった匂いに、つい笑った。そしてただ泣いた。

泣くだけ泣いて、高橋はついに言った。
「分かり合えなきゃそれでもいい。互いに無理は禁物だ。でも問題は把握してもらえている。僕は宮垣のジジイと一緒に自分のメンテに取り組まなきゃ。
ああ、きついなあ、もう少し優しくて親身になってくれる相手とやりたい」

四郎は、さっきとおなじように、そっと高橋の背に手をあてた。
「俺、お前が宮垣先生んところ行くとき、一緒に行くでえか。ひとりでいったらあかんよ。気が狂いそうな気分になるとき、ひとりでがまんしたらあかんよ」



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もくろみ・目次・登場人物紹介

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!