見出し画像

有馬先生のユエン・ウーピン。――成長小説・秋の月、風の夜(15)

ベストセラー作家、有馬青峰(ありま せいほう)。自宅は、大津。

有馬先生のご自宅には、月一回、儀式のように必ずお伺いすることになっている。
それ以外に、原稿が上がったから取りに来てくれと言われて、必ず四郎は訪問しているのだった。
「そろそろ、原稿をスキャナで取り込んで、メール添付にしましょうよ」と高橋は提案するが、有馬青峰はうんと言わない。重鎮らしく接してほしいからか、ITまわりの手伝いを確保できないからか。

原稿はリースしたスキャナで取り込んで送付。大津-楷由社(かいゆうしゃ)間で電子会議。その前に有馬先生がほしいものを聞いてしまおうと、今回は余裕をもった訪問にしているのだ。
したがってまずは、有馬先生の通う剣道場にお伺いする……という希望をのんでいる。

「きたきた、まっていた。今日こそやっと和臣(かずおみ)君のところに、連れていくからな。上がらず、すぐすぐ」
有馬先生は、すこぶる嬉しそうに竹刀袋とキャリーバッグ式の防具袋を持って、玄関に出てきた。「ほんとにすいませんねえ」と後ろから奥様の声がおいかける。
「宿をとらずに泊りたまえ」という有馬先生のおことばに甘えるので、四郎は「のちほどお世話になります」と、奥様に頭を下げた。

四郎は、キャリーバッグ式の防具袋なんてはじめてらしく、首をかしげながら引いてみる。
シルバーのA4アバントのトランクをあけ、高橋と四郎は竹刀袋と防具袋を丁寧に入れた。そのまま高橋は後部席に有馬先生を招じ入れ、どっかりと有馬先生が腰をおろしたところで、ドアを閉めた。運転席にもどる。
「ええっと、場所を教えてください」カーナビの入力画面を出す。
「観音堂南の広徳館」
「広徳館。あ、観音堂南の信号を右折。ここですか」
「そうそれ」
「はい、出ます」

高橋が運転に集中しているあいだに、後部席、有馬先生の隣に移った四郎が、打合せを進めていく。有馬青峰、だいぶいい加減にではあるが、四郎の質問や提案に答えながら、方針決めや草稿の手直し箇所などを把握する。

「あとですね、他の会社さん、他の編集さんのやり方で、先生が、これは楷由社(かいゆうしゃ)にもしてほしいと思われることは、ありますか」
「え?」有馬先生の聞き返しは、ときに、不機嫌なのかと勘ぐりたくなるようなトーンになる。
四郎は「ああいうトーンのとき、不機嫌なわけじゃないから、ひるまずつづけなよ」と高橋に入れ知恵されている。ひるまず淡々と続ける。
「あの……私が至らぬところはどこですか、他の編集さんと比べて。何か今よりもっと、お手伝いできることはありますか」
「ないよ」

「ほんでもなんか」
「帝学館とか文兆社みたいに、きれいなオネエチャンつけて接待しろなんて、言わないよ。楷由社さんは、それを上回ることをしてくれているよ。だいたい四郎君はこれから校正専任でやってくんだから、他社でどんなふうに仕事してるかなんて気にしなくていいよ」
「ほんでも……」

有馬先生は、腕組みをほどいた。

「いいかい四郎君、今日こそ行くけど、そもそも和臣君のところに連れていけるのは、四郎君だけなんだよ。文兆社のモモイケも、帝学館の堅城も、剣道場で座ってられないんだよ。四郎君がぜんぶ、どこの出版社か関係なしに、わたしが読んでみてくれないかって言う過去の単行本や書きかけの原稿をぜんぶ読んで、丁寧に丁寧に、思ったこと教えてくれるだろう。アクションのキレがないところや、見せ場の派手さやキメについて相談するたびぜんぶ、必要な調べを持ってきてくれるだろ。
竹藪に逃げ込んだときの立ち回りやら、袴が片方だけ水を含んでしまったとき片ももだち取るなんてあるのかとか、乱闘も一騎打ちも上州の馬のサイズの騎馬と人でのやりあいも、相手を想定した動きを組み立てるとき、相談相手になってくれただろ。
モモイケや堅城は、“有馬ちゃん、どこでユエン・ウーピンやとったの”なんて言ってる。わたしは“なーいしょ”って答えてるんだ。四郎君は、私の秘密の飛び道具なんだよ」

「……すいません……」四郎は頭を垂れて、なぜか謝る。
高橋は運転席から助け舟を出した。
「有馬先生、こいつテレビとかDVDとか見せてもらえないんで、ユエン・ウーピンがアクション監督だってわかりません」

「……しらないの……」
有馬先生が、ふっと笑う。「四郎君はほんとに、室町時代からタイムスリップしてきたみたいな子だね」
たしかに室町時代人は、体の中にわんさか詰め込まれています。


次の段:ええ?借金!?--秋の月、風の夜(16)へ
前の段:激しい雨で前も見えない。--秋の月、風の夜(14)へ

マガジン:小説「秋の月、風の夜」
もくろみ・目次・登場人物紹介

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!