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分人を生きる-「私とは何か 「個人」から「分人」へ」(平野啓一郎)

※ サムネがへたです。

・本の紹介と時代背景

本書は、小説家である平野啓一郎氏が創作のための思索を通じて辿り着いた、「個人(individual)」ならぬ「分人(dividual)」という概念について記したものだ。「分人」概念そのものは、シンプルといえばシンプルだが、これを用いることで、「人間」を巡るさまざまな問題を新たな視点から理解できる。また、作家がいかに人間の葛藤や感情とかアイデンティティとか、平たくいえば良く生きることや、それを妨げがちなものについて深く考えているか、という事が分かる点も本書の面白いところだ。

最初に断っておくと、非常に申し訳ないことに、実は平野啓一郎氏の作品は読んだことがない。本当は小説を読んだうえで話をするほうが良いのだろうなと思いつつ、取り敢えず今日のところは今後の課題に留めるが、ひたすら作品を読んでみたくなった事は強調しておきたい。

本書は2012年に発売されたものだ。当時は、「セカンドライフ」こそあったものの、今ほどメタバースみたいなことも注目されていなかったし、VTuberやら「バ美肉おじさん(*1)」みたいなものも、特に言われていなかった。もちろん、ネット人格のようなものは既にあったし、オンラインゲーム等における「ネカマ(*2)」のような存在は知られていたはずだが、まだ、リアル世界の自分とは異なる自分で過ごす時間や場所の意味、のようなものを、実体験として理解する人の割合は少なかった時代だろう。

このタイミングで、人間を分けられない(individualな)存在ではなく、分割可能な存在として捉える考えをまとめ上げたのは、一般的な感覚からすると早いように思う。平野は本書に先立ち2009年の小説作品『ドーン』の中で分人概念を導入している(らしい、読んでないのだ)。

同時期に、『なめらかな社会とその敵: PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論(*3) 』(2013)の中で鈴木健氏が、「分人民主主義(Divicracy)」なる未来像を描いている。これは、ごく簡単に言えば、価値の相対化・多元化が広く理解されるようになりつつある昨今、1人1票で代議士を選ぶみたいな、切り捨てられる民意を必然的に生じさせてしまうやり方は、もうちょっとアレなんじゃないか、といった話だ。しかも、今のシステムだと、何%は賛成だな、みたいなことを我々は選挙で意思表示できない。現代が、互いに矛盾する正しさが世にあふれているような時代であるにも関わらずだ。

1人1票で代表を選び、代表たちがまた多数決をするシステムとなったのには、ひとつは計算可能性の問題もあったかもしれない。しかし、計算資源が桁違いに豊富になった昨今では、計算は複雑になっても、より民意のグラデーションのようなものが表現できる投票システムが実現できるのではないか、という事を考えることが出来る。とかなんとかで、まあ、イシューごとに0.2票を投じるとかもアリなんじゃない?といった、民主主義をアップデートする系の話なのだが、実際書かれていることはもっと複雑なので割愛する。

両者の前後関係は定かではないが、人を分割可能なものと捉える考え方が、同時期に提示され、それなりに受け入れられたのは興味深い。「分人」概念そのものは、この時期の発明というわけではなく、文化人類学においては、1900年代後半から、アジアやメラネシアの文化を理解するうえで、西欧由来の「個人」概念では捉えきれない人のあり方を示すために、既に導入されている(*4)。しかし、当時はあまり流行らなかったようだ。

それが2010年代以降は、より我々の感覚を掴むものとして(再)評価されてきた、という事になる。

・「分人」とは何かー自己も多元化する時代

「分人」概念のキホンは、社会関係が生じる場所のそれぞれにおいて、それぞれ「私」がある、と考えるところにある。より単純に言えば、他者との関係があるところで、それぞれ違ったキャラの「私」が生じるみたいなことだ。

これは、わりと納得感のある話だろう。思春期の頃によくある素朴な体験として、「家族には絶対学校に来てほしくない」というのがある。友達と接している学校での自分と、家庭での自分とが別ものであることは、よくあることだ。人は場所、接する人によって多かれ少なかれ別人格となる。

同じように、大人になっても、職場の「私」と家庭での「私」はもちろん違うし、「ネットの闘魂ちゃん」みたいなものになると、「私」はさらに遠くへ行ってしまう。のだ。

村社会のような逃げ場のない場所から人々が遠ざかり、公私ともに人々の生活を支えてきた共同体的会社組織が後退し、さらに匿名度の高いネットベースのコミュニケーションが発達した事によって、現代人は自分を使い分けることが容易になった。文化や価値の多元化と同時に、自己の多元化も進んできた、という事なのかもしれない。「分人」的な人間観は、現代を生きる我々にとっては、ごく自然に感じられるものだろう。

とまあ、「分人」自体は、きょう日誰でも思いつきそうなことではあるのだが、本書をユニークかつ魅力的にしているのは、そんな「分人」を巡る、深い、さまざまな角度からの考察だ。

本書における「分人」を巡る考察に関して特に印象深かったところは、アイデンティティの危機みたいなものをうまく説明していることと、死者の存在にただよう微妙なライブ感をうまくとらえていると感じられるところだ。ここに、著者の力量と豊かな感性を感じた。

・「分人」と自己

アイデンティティについては過去にも書いたことがある(*5)。そこでは、アイデンティティを構成要素に分割する考え方を紹介したが、「分人」概念を用いると、これを少し違ったライトの当て方で考えてみることができる。

「分人」概念により説明される自己とは、「他者との関係で生じた分人の集合体」になる。例えば、職場で活躍できていない、という状態は、職場での自分という分人に不幸を抱えている状態である。ここで平野は、「分人」の構成割合を問題とする。つまり、この不幸な「分人」が自分の大部分を占めるようだと、生活の大部分が不幸に感じられる状態になるということだ。

例えば、就職試験に合格し、東京に出てきて、独り暮らしで家と職場だけを往復しているような人が、職場でうまく行かなくなってしまうと、とりあえず実家に帰るぐらいしか他の「分人」を生きる術がないことになる。それは色々しんどかろう。

他にも、恋愛にのめり込んで、恋人との関係における「分人」が巨大化しすぎて、恋愛が終わった時にすべてを失った気持ちになるようなこともあるだろう。

そうした問題に陥らないために、以前はアイデンティティ論を引きあいに出し、アイデンティティが多様な構成要素からなることに目を向け、構成要素を豊富にする取り組みが、人をタフにする、みたいなことを言った。これを「分人」に置き換えてもメッセージとしては、だいたい同じことが言える。

自分が多くの「分人」から成り立っている事を理解し、ひとつの「分人」が自分の価値の全てだというように考えないこと。また、何かで大きく失敗したとしても数ある「分人」の一部が傷つくだけであり、他の健康な「分人」を生きながら、その修復を考えていくこともできる、というように捉えること。つまり、「分人」概念で自分を考え直すことにより、自分をよりよく理解して、自分の好きな「分人」を増やしていくことが出来る。本書のメッセージのひとつはそんなことだろう。

・「分人」と他者、そして死者

先に述べた通り本書での「分人」論の特徴は、他者との関係に強くスポットを当てているところだ。平野は「分人」が、他者との相互作用で生じる、としている。ここから、人を好きになることを、「自分自身がポジティブな分人でいられる」ことに心地よさを感じている状態だ、と展開してみせる。これは他者との関係を経由した自己肯定だ、とそういう話である。

では「分人」を手がかりに、死別について考えてみるとどうなるだろうか。他者の死は、当該他者との関係により生じた「分人」を生きられなくなることだ、と理解することができる。好ましい他者との関係により生じた、好ましい「分人(自分)」でいられる機会を失うことは、死別に伴う喪失感となる。

他者との関係は、コミュニケーションにより常時更新され、鮮度が保たれるものであるが、死者を相手に生前と同じように「分人」をアップデートしていくことはできない。時が経ち、さまざまな経験を重ねていくうちに、その「分人」の構成割合は次第に小さくなり、他の「分人」でいる時間が長くなっていくだろう。しかし、故人との間の「分人」が完全になくなってしまうわけではない。

死者との「分人」が残された人の中に存在するという考え方は、物理的にはまったく存在しないものとなっているはずの「死者」が、なぜ、どうして多くの文化で守護霊のようにどこか生命感を伴ったものとして存在できるのか、というナゾに対するひとつの説明になっているように思う。

・「分人」を通じた伝播

「分人」は、他者とのコミュニケーションが生み出した反応のパターンであるから、それは脳の回路の一部をなしている、と考えることが出来るだろう。

人間はコミュニケーションを通じて、お互いの脳に回路を作り、言葉や文化といった多くのものを分かち合っていく。それは、時には書かれた文字や描かれた絵画を通じた間接的なコミュニケーションを介して行われるかも知れない。こうしたものを捉えた言葉として思い当たるものが、ドーキンスの「ミーム」だ。

我々の脳というハードウエアに、例えば「言語」のようなソフトウエアを数多く書き込んで、人は社会に適応し、生存する術を学んでいく。そのソフトウエアは、幼少期における親とのふれあいから始まり、成長してからの他人とのふれあいを通じて、相互に変化を与えていく。そして、死後も他者の中にその一部分が残り、またそれが伝えられていく。

これを「分人」で言い換えると、人と接することは、他者の中に「分人」を生み出すことであり、その「分人」の一部は当該他者の中の他の「分人」にも多少なりとも影響を与え、また他者の「分人」へと、少しずつ伝播していく。そうして、「死者」は、誰にも直接顧みられなくなったとしても、誰かの「分人」の一部であり続けるのだろう。我々は、そうしたものを受け継ぎながら、日々を暮らしている。

平野は言う。

「言葉というのは、私たちそれぞれが生まれる遥か以前から存在していて、死後、遥か後まで存在し続けている。私たちは、生きている数十年の間、一時的にそれを借りて自分を表現しているに過ぎない。」

「私とは何か 「個人」から「分人」へ」(平野啓一郎)

人は、受け継ぎ、伝え、そしてかけらとなった「分人」として生き続ける存在なのかもしれない。

・おわりに

みてきた通り、「分人」概念は、シンプルかつ強力なツールだ。こうしたツールを使ってみることは、自分自身を考えるための方法のひとつとして良いのではないかと思う。

昨今、組織は必ずしも当てにならないよね、みたいな観点から、「手に職」的な価値観は強く、専門性を身に着けた職業人としての自分、というものを求めている人が多いように思う。もちろん、メイクマネーすることは、ハッピーに暮らすためには多かれ少なかれ必要なことではあるので、それ自体が否定されるものではないし、より経済社会に貢献したいという思いに悪いところはない。

しかし、そういう価値観は人を容易に競争のための競争へと誘う。そして、そうした「ゲーム」での敗北が時には人につらい思いを強いることがある。それは、社会の中で確立した「個人」でありたい、みたいな、伝統的な価値観に沿っているがゆえに起こる部分もありそうに思う。「強い個」などではなくとも、誰かとの関係において、よき分人であれば、その集合体としての自分は、ナゾのレースでの勝ち負けはそれはそれとして、全体としてはハッピーでいられるのではないだろうか。

「分人」が広く受け入れられるようになったとおり、時代は、移り変わっていて、「強い個」として発信することより、さまざまな関係と伝播を通じて価値を伝えることのほうが、今後は重要になってくるのではないかと個人的には思う。そういう時代をハッピーに生き抜くために必要なのは、専門性を身に着けた職業人としての自分みたいな硬いアイデンティティだけを追求するのではなく、より豊かで多様な「分人」の集合体であるために、積極的に「分人化」してみる(*6)みたいなことなのかもしれない。そんなことを思った。

そもそも、我々は何者でもないのだから。


*1
バーチャル美少女受肉おじさんの略。要するに、バーチャル空間やネットアバターとしていわゆる美少女キャラクターを用いるおじさんたちのことである。NHKねほりんぱほりんの「バ美肉おじさん」会の放送が2020年の年末になる。思ったより最近なのだ。

*2
ネットおかまの略。男性が、ネットゲームやネットサービス等で、女性的なキャラクター、アバター、通称等を用いて、女性であるかのようにふるまうタイプのある種のロールプレイである。インターネット黎明期から存在しており、初期のネットユーザーは男性の割合が多かったことから、ネットに女性らしき人がいれば、基本的にネカマを疑った方が良いとされていたが、巧みなロールプレイヤーの放つ魔力に抗える者は少なく、各地で多くのトラブルが発生したのだ。

*3
ちなみに、PICSYとは、「伝播投資貨幣システム (Propagational Investment Currency System)」のことである。これは、貨幣に交換手段としての機能の他に投資としての意味を持たせ、貨幣を渡した先での成果の一部が支払った者に帰属する、といったような貨幣システムを言っている。ストックでありフローでもある、なんかそんな感じなのだ。

*4
武田 英明:分人型社会システムによるAI共存社会の枠組みに向けて, 情報通信政策研究, Vol.5, p.113-129,2021
他に、ドゥルーズが分人概念を用いているが、ちょっと違う話のように思われるので割愛するのだ。

*5
電子の海に潜む闘魂:自己肯定感低め会計士とアイデンティティ論-おまえは何者か, 2023

*6
だからといって、かわいいアバターに変更すればよいという話ではないのだ!

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