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書く仕事は、おそろしい。

大学を卒業してから就職もせず、ずっとライターとして書く仕事をしている。
そのくせ、おそろしくてたまらない。年々、書くことへの恐怖が増している。

インタビューをして、人の思いを記事にしてまとめ、世に届けること。こうして、自分の胸の内をつづること。どちらにしろ、誰かに何かを届けるために、文字にして残そうとすると、自然と呼吸が浅くなる。

書くことは、海での遠泳のようだ。書き上げない限り、書いていない時でも息苦しさは続く。陸に着かない限りは、立泳ぎで少しずつ消耗し続ける。
しかも、大抵の場合、ゴールは自分で決めなければいけない。わかりやすく目的地が見える時もあれば、泳ぐのをやめて足を着けてみない限りは、そこが陸かどうか確かめようがない、なんてケースもざらだ。

ここに恐怖がつきまとう。溺れてしまわないか、なんてことではない。大して泳いでもいないのに、目指した方角ではない気がしているのに、島にたどり着いて歓迎されてしまうこと。いつ、泳ぐのを辞めればいいのか、わからなくなってしまうこと。やみくもにもがき続けて、何のために進んでいたのか、見失ってしまうこと。

さらに仕事にすると、そこに時限がつく。初めの恐怖は、間に合わないこと、上手に泳げないこと。そして、その先に「手頃な距離の島を見つけるのがうまくなってしまう」という、“振り出しに戻る”のコマのような、理不尽な恐怖が待っている。

もっと上手に、遠くに泳げるはずなのでは?

そう思って、上手に泳ごうとして、間に合わなくなる。今度は間に合わせようとして、フォームが雑になる。

ユートピアは? 新大陸はどこだ?

不確かな理想が重りになって、沈みそうになる。実はそこが、じゅうぶん足の着くこじんまりとしたプールだったとしても、だ。

伝えることに誠実であろうと意識すればするほど、書くことはつらくなる。インタビュー記事なんて、最たるものだ。書き手のフィルターを通して、話し手の言葉が世界に放たれる。何を強調して、何を削り、どういう順番で並べるか――書き手の言葉選び、変換の仕方で、話し手の印象は信じられないほどに変わる。

世の中の多くの人は「記事に書いてあること、記事上で語られている言葉は、紛れもない事実」と信じている。それは、間違いない。間違ってはいないのだけど、事実は並べ方、切り取り方で、いくらでも意味合いが変わる。時にはとんでもなく不本意な方向に変わってしまうのだ(もっと細かい話をすれば、助詞ひとつ、数文字で文意は変わる。「間違いない」と、「間違ってはいない」では、伝わり方が160度くらいは違う)。

書き手のフィルターごしに届けられた、話し手の言葉。その意味合いが、不本意にも誰かを傷つけたり、怒らせたりすることがある。こうしたことが起こった時、書き手は大抵、蚊帳の外だ。「書き手である私の伝え方が悪かったんです、話し手にそんな意図はなかったんです」なんて言っても、あとの祭り。どんなに書き手に非があっても、批判の矛先は話し手に向かう。

インタビューの書き手は、読者や取材対象を傷つけてしまっても、ほとんど為す術がない。取りたくても、責任を取れない。恐怖でしかない。

そんな仕事を、生業にしている。おそろしさを引きずったまま、こうしてものを書いている。不憫だ。

それでも、書く仕事を止められないのは、「書くのが好き」だから、じゃない。むしろ、もとから「書くのが好き」だったら、とうの昔に折れていたと思う。正直に言うと、書くのは「嫌いじゃない」程度で、寝ることや食べることの方が圧倒的に好きだ。

止められないのは、すごいからだ。好き嫌いなんてパラメーターで左右されるものではなく、書くという行為が伝える手段として、ものすごく優れているからだ。その射程は、物理的な距離だけではなく、時間をも超える。
大声で叫んでも、近くにいる相手にしか届かない。けれども、それを文章にして手放した途端に、言葉はさまざまな壁を越える。うまくいけば、そのメッセージは遥か遠くまで運ばれて、文字通りに数え切れない人々の心に刻まれる可能性だってある。

なぜ、書いて出すのか。特定の誰かに伝えたいのならば、個別に話せばいい。書いたからといって、必ずしも外に出す必要はない。「書いて出す」という手段を選ぶということは、多かれ少なかれ、不特定未知数の誰かに、何かを伝えたがっている証だ。

そう、伝えたいことがたくさんあるんだ。世界の多様さ、日常の機微、時には挫折、苦悩、絶望、その先に見つけた光、希望、未来。避けられない課題、向き合う姿勢。当たり前なんてないこと、すぐそばにある大切な、けれども見失いがちで、かけがえのないもの。

必要な人に、必要なメッセージを届けたい。それが果たせた時のやりがいや喜びは、計り知れない。もしかすると、伝えた言葉に触発された人が、世の中を劇的にハッピーにする何かを始めるかもしれない。どこかで、救済のサイクルを生み出せるかもしれない。何かを書く時、そんな期待を抱かずにはいられない。

いや、違う。そういうきれいな話ではない。忘れちゃいけない。伝えるという行為は、暴力でもある。誰かの価値観を揺るがし、何かを刻み込み得る。その言葉に触れる前と触れた後で、決定的に世界の見え方が変わってしまうことだってある。良し悪しにかかわらず、意図したかどうかにもかかわらず、何かを破壊する力を秘めているということ。これは、暴力性にほかならない。

そうさ世のため人のため……なんて気持ちは半分もないんだ、きっと。実のところ、自分が受信した喜怒哀楽、驚き、尊さ、大切だと思ったことを「ねえねえ聞いてよ」と押し売りたいだけだ。
それが上から目線にならないように、角が立たないように、うさんくさく思われないように、誤解されないように、知らぬ間に誰かを傷つけないようにするには、ある程度のスキルと経験則が必要になってくる。仕事にすると、これらが養いやすい。

取材を通して、たくさんの叡智、震えるほどのカッコよさ、価値観を揺さぶられる事実に出合う。日に日に何かがこじ開けられて、ただでさえデカいと思っていた世界が、どんどん広がっていく。たまらなく痛快だ。
そして、もったいないと思い始める。これを、自分だけが知っていることにしておくのが、もったいないと。

そんな繰り返し。だから、止められない。と言うよりかは、「止める」という選択肢が見当たらない。泳げば泳ぐほど、情報は入ってくる。伝えたいことは増える一方だ。

書いているうちに、次から次へと、伝えたいことが湧いてくる。どこで足を着けたらいいのか……ああおそろしい、スリリングだ。おそろしいから、これからも慎重に慎重に研ぎすませていく。

これを書きながら伝えたかったことは、ホントは一言で済むんだ。

「書く仕事は畏ろしくて、楽しくて、止められない」。


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むかし書いたmediumのブログに、少しだけ手を入れて再掲したものになります)


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より佳く生きていこうと思います(・ω・)