多様性が奪われる

 『多様性』という言葉が聞かれて久しい。
 現在広まっているのは、一言で言えば「いろんな価値観を認めよう」という、社会的多様性だろう。なぜそれが広まっているかといえば、今までは「共通の価値観」が大切にされ、それを守るものが『マジョリティ(多数派)』であり、守らないものは『マイノリティ(少数派)』として排除された。しかし、それでは社会がうまく成り立たなくなってきたからだ。

 例を挙げれば、以前までは「夫が外で働き、妻は家で家事をする」のが当たり前だった。片親などの特別の事情が無い限り、結婚後に夫が家事を務め、妻が外で働くことは珍しかった。
 しかし、夫でも外で働くのを苦痛と感じ、あるいは家事を得意とする人もいる。妻でも社会的地位の高いや収入の多い仕事をしているし、結婚したからといっても仕事を辞めたくないという人もいる。
 現在からみれば、後者を珍しいと思うことこそ奇異に感じるだろうが、ほんの数十年前までは前者が常識とされ、後者のような考え方をする人は奇抜で非常識な考え方だと思われていた。
 他にも例を挙げるなら、「看護師」はかつては「看護婦」と呼ばれていたのだが、これも以前までは女性の仕事とされ、男性が医療ではなく看護に関わることは珍しかった。逆に、女性の医者が「女医」と呼ばれるのも、珍しかったからだ。
 重要人物のことを「キーマン」と呼んでいたが、男女平等の観点から「キーパーソン」と呼ばれるようになった。

 これらの変化は、女性の社会進出が増えたことも一因だろう。
 男尊女卑から男女平等へと社会の価値観が変わり、女性だからといって仕事が与えられなかったり、賃金が低かったり、地位が与えられない、あるいは会合で排斥されるのは不公平とされたのだ。
 また、経済的事情でいえば、夫の給料だけでは生活が苦しいので、妻も仕事をするようになった。
 逆に、夫だからといって外で働く必然性もなくなった。看護や保育のように、女性の仕事とされたことに関わることも社会的に認知されるようになった。
 これも、現在からみれば何ら不思議はなく、むしろそのように女性が低く扱われていたり、男性も職業を縛られていたのかと驚く人もいるぐらいなのだが、たまに老壮の著名人が「早く結婚して子供を産むのが女性の役割だ」とか「男性なのに主夫などと言って家事をするのはおかしい」などと発言し、物議を醸しだすこともある。50年ほど昔なら、その発言は正しかったのだろうが、現在では誤りである。そのようなことを言う人は、情報のアップデート(更新)が出来ていないから、その考えがもはや誤りであることが分からない。分からないから、謝罪する必要性も理解できないのは、そのせいである。

 男女平等どころか、そもそも男女の区別を付ける必要はあるのかという考えが、ジェンダーレス(概念的な性差別を無くす考え)となる。
 先ほどまでのジェンダーフリー(社会的な性差別を無くす考え)とは少し違う。
 例えば、ランドセルの色といえば、かつては黒色が男の子用で、赤色が女の子用だった。さらにピンク色が女の子用として作られた。これは衣服や持ち物にも言えた。男の子が、赤色はともかく、ピンク色の服を着たり、可愛らしいフリル付きのハンカチを持つことは奇異だとされたのだ。
 あるいは、スカートといえば女性のもので、タキシードは男性のもので、それは絶対だった。
 ジェンダーレスでは、これらを取り払おうとする。
 すなわち、男性であってもピンク色のスカートを履いたり、女性であっても紺色のタキシードを着ても構わず、それを一方的に否定するのはおかしいとする考えだ。
 さらに、結婚といえば異性婚が普通だったが、同性婚も認め、代理出産で生まれた子も実子として認めようとする考えも増えている。

 これらにより、それまではマイノリティとして肩身の狭い思いをしていた人たちが、社会の中で堂々と歩くことが出来るようになった。
 漫画やアニメは子供の見るものとされていた。
 男性が「甘い物が好きだ」と言うと小馬鹿にされていたのが、「スィーツ男子」などと呼ばれて、受け入れられるようになった。
 女性が土木建設の仕事に携わったり、工場を経営しても不思議に思われなくなった。
 尤も、マスメディアには奇異に扱われることが多々あるのだが。
 このように、多様性の認められた社会が形成され、いろんな価値観を持った人たちが、いろんな場面で活躍することが出来れば、それまでは常識とされた因習などが打破され、自由で平等で豊かな世界が出来るのかと言えば、どうも、そうはならないようだ。
 それを阻もうとする存在のひとつが、表現規制である。

 表現規制とは何か。
 例えば、ぎりぎりまで肌を露出させたような衣装を着る女性の写真や映像を流さないようにしようとしたり、犯罪や喫煙や飲酒などの表現を漫画などから取り外そうとするものである。
 前者は男性に性的興奮を覚えさせるものとして、後者は犯罪抑止や未成年による喫煙や飲酒の防止を目的として、一応、説得力がある。
 一応、としたのは、前者はフェミニズム(女性解放思想)の人たちが性犯罪が増えると主張する内容ではあるものの、肌を露出させた女性が増えることと性犯罪が増えることに関連性が見い出せないとされているからだ。ただ、ミスコンなどの審査会で水着審査を行うのは、必ずしも出場者の意思に沿うものでも必要性のあるものとも言えないので止めるべきだとは思うのだが。
 ともあれ、規制といっても独裁者や軍事政権のように、表現や発言や思想の自由を徹底的に奪うというものではなく、あくまでも、道徳的にふさわしくないものを公共の場所に出さないようにしましょうという程度のものである。

 ところが、この表現規制こそが、多様性の排除に動いている。
 『VTuber戸定梨香』事件と『月曜日のたわわ』事件である。詳細は省くが、簡単にいえばフェミニズムの人たちが「女性(実在ではなく映像なのだが)が露出の多い服で男を誘惑しているのはけしからん」、「胸の大きい女の子の漫画の絵が、新聞紙に広告として使われるのはけしからん」というものである。
 主張としては、それらは男性の性的興奮を誘発するもので、性犯罪を助長しかねないというものである。だが、少し考えれば分かることだが、その意図で行われているものではない。言うほど露出が多いわけでもない服を着た女の子が普通に話しているだけの映像や、胸の大きな女の子の絵がそこにあるだけである。
 これには様々な人たちを激昂させた。前者に対しては表現の自由を損なうものとして、後者に対しては女性を外観だけで一方的に判断するのは差別を助長しているとして、反発したのである。その顛末も省くが、訴えられた側はそれに懲りるどころか、ますます女性の表現を規制する主張を繰り返している。
 厄介なのが、それを主張している当人たちは、善意のつもりであることだ。
 金銭目的で恐喝したり、仕事を奪おうとすれば犯罪だが(実際にはVtuberや漫画家などの仕事を奪いかねなかったのだが)、そうではないから、その主張が誤りだと分からず、謝罪しなければならないということも分からない。
 先に挙げたような、ジェンダーフリーを理解できない老壮の著名人と、根は近い。

 
 多様性を高めるために必要となるものは、表現の自由である。
 しかし同時に、表現の規制も必要となる。
 何もかも自由に表現することが許されてしまえば、先に挙げたものでいえば、未成年の読む漫画で喫煙や飲酒を助長するものも許されてしまうことになる。確かに、昔の漫画では多く使われている表現だ。しかし現在では、ほぼ無くなった。アメリカの映画でも、昔は葉巻を咥え、ウィスキーを呷るような男性を男らしいものとして表現されていたが、今ではすっかり消え失せた。未成年だけでなく成年に対しても、決して道徳的とは言えないからだ。
 しかし、同性愛や、異性の衣装を着ることなどは、それに不快感を覚える人はいるものの、それはあくまでも個人的な感想である。反道徳的とは言えない。そうであれば、逆に規制してはならない。
 この線引きは難しいものがあるが、少なくとも、個人的に不快だから社会的にも不快だろうと勝手に決めつけて表現を規制しようとするのは、多様性に反する。


 多様性というのは、認めるということ。
 その人が、どんな宗教を信仰していようが、どんな思想であろうが、どの人種であろうが、どんな発言であろうが、まずは認める。反社会的、非道徳的なものは排除しなければならないが、一方的に自分の価値観を押し付けるのではなく、相手がそのような価値観を持つことを認めるところから始まる。
 それがたとえ理解できなくても、構わない。すべてを理解することなど不可能なのだから。
 相手よりも高い目線からの許可でも、免除でも、赦免でもなく、相手と同じ目線で互いに認め合うことが出来なければ、多様性が広まることはないだろう。まずはここから始めなければならない。

#多様性を考える

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