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子育ては、「無傷の人生」を美徳としないこと

子育ては本当に難しいですね。
絶対の正解も存在しません。
しかし、私が最近の若者や、親たちを見ていて思うことがあります。

それは「無傷な人生を美徳と思っている」という悪弊です。
公園に行けば、一人で歩き回ろうとする幼子を
必死の形相で追いかけ回すお母さんの様子が見られます。

「ダメよ!危ないから!」というような内容のことを言いながら。

そしてそのようなマインドセットは、
その子が転倒して怪我をするかも知れないその一瞬だけではなく、
その人がその子を育てるにあたって、
常時発動されるものであることが恐らく多い。

母親は(ときには父親も)、とにかく我が子を守ろうとする。
しかし、どうでしょう。考えてみてください。
今日、生まれたばかりの赤ん坊も、
80年生きれば80歳の老人になります。
その80年の人生を、無傷で生きられる人はいるでしょうか?

痛いとか、苦しいとかいう体験をしない人間はいるでしょうか?
そして人間は、それらの経験から多くのことを学ぶのです。
転ばないようにするために歩き回ることを禁じられた子は、
大切な人生経験をしないままに、「守られて当たり前」という常識を醸成します。

しかし、親が子が死ぬまで守り続けてあげられるケースは
滅多に存在しないでしょう。そのことを考えてみたいのです。

どうして親は、子が傷つくことをそこまで嫌うのか。
それは、恐らく自分が苦しいからなのです。

我が子に対して思い入れが深くなりすぎるあまり、
その子の痛みが、本人以上に自分にとって苦痛なのです。
我が子が苦しんでいる姿、痛がる姿、泣く姿を見るのがつらいのです。

そのつらさから逃れるために、
恐らく子供を過剰に守ってしまうのでしょう。

つまり、対象は実は我が子ではなく、
自分自身の心なんですよね。

そのことに気づくべきではないでしょうか。
我が子は、自分の持ち物ではないからです。
我が子はあなた自身でもないからです。

子が困難な状況になったり、苦しんだりしているときに、
過剰に守ってあげてしまうと、その子は困難さに対する耐性が
非常に弱い人間になってしまいます。

そして残念ながら、困難さが皆無な人生は存在しません。
その結果として、我が子はより軽微な困難さに対してさえ
非常に苦しむ人生を送ることになってしまうのです。

それはトータルで考えて、我が子のためになっているでしょうか。

そう考えていくと、子育てとは、
親にとって「自分とのたたかい」でもあるのです。

口出ししたいところを抑えて口出ししないとか。
価値観を押し付けたり、これが正しいんだ、と
自分の正解を押し付けたりしない。

しかし、親として「人として何が正しいのか」は教育する。
その匙加減は本当に難しい。

子育ては、自分という個人として生きていたときとは
まるでちがう課題と向き合うことです。

語弊を恐れずに言えば、
それは人間ができる経験の中でも、
かなり自分自身が成長することのできるものでしょう。

私がいま、ここで言っているのは「出産」ではありません。
生まれた子を育てていくフェーズのことです。

自分の子とよその人間は圧倒的に意味がちがいますから、
会社や組織での人材育成ともまったく話がちがいます。
そういう一大宇宙が、「子育て」というフィールドなのですね。

転びそうな我が子を、そのままにさせておく。
転んで泣いても、泣かせておく。
しかし、大怪我になりそうかだけはちゃんと判断する。

そういう視座が必要です。

すべてから守るのでもなく、すべてを放置するのでもなく、
本当に必要な場面を考え、実践する。
そんな経験は、人の子だったときにはしません。
人の親になったからこその出来事です。

だからこそ、人として親の方が成長するのが子育てなのでしょう。
できる人間が、まだできない人間に教えるのが子育てではありません。
親も子育てを通じて成長していくのが、
本来の子育てなのだと思います。

そういう意味において、今の社会では「失敗しないこと」が
非常に重要視されていますよね。

まるで失敗したら、人間として「キズモノ」にでもなったかのように、
決して失敗しないことを美徳としている社会が展開されています。

しかし、それは実はまったく現実的ではありません。
失敗をしないで成功することなど起こり得ないし、
傷つくことで人は年輪を重ねていくことができるからです。

そう考えると、子どもから傷つく機会を極力排除しようとすることは、
豊かな人生経験を子どもたちから奪う行為なのではないかと
私は思っています。

人はいつも笑っている方がいいという人がいますが、
私はそうは思いません。
いつも笑っていたら、笑うことの意味はわからなくなります。

笑えないときがあるから、笑うことが重要なのです。

本当に楽しいことをやっているとき、
人は真剣になるものです。真剣な表情は、笑ってはいません。
笑顔には、ことが終わってからなればいいのです。

それよりも、真剣に打ち込むものがある人生、
夢中になるものがある人生、
なんとかしたいものがある人生こそが、
人にさまざまな価値と教えを与えてくれるのではないでしょうか。

それらのものには、失敗がつきものです。
挫折がつきものです。

いいじゃないですか、失敗しても、挫折しても。
「今が成長のチャンスだね」と言ってあげればいいのです。

その機会をどう活かすかは、本人が決めることです。
決められるのは本人だけなのです。

さて、上記のような意見は、
現代社会の中では危険視されるかも知れませんね。
しかし私は逆に考えています。

実際に存在しない、一切失敗しない人生を強要することの方が、
よほど危険なことだと思うのです。
それより、失敗をちゃんと経験し、それを受け止め、
次に向かって歩み出す力を身につけた人間になって欲しい。

失敗のない人間なんて、なんの面白みもないですからね。

人は死ぬ時に、過去の思い出を走馬灯のように思い出すといいますね。
そのとき、どんなことを思い出せるのか。
思い出すことがたくさんある人生が、豊かな人生なのかも知れません。

平穏無事に過ぎることもときには大事ですが、
何か壁にぶつかったときに「おもしろくなってきた!」と言える
マインドセットを育ててあげたいと、私は思います。

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