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政権の受け皿になるとは、どういうことなのか?

先日の土曜日、
「政治の話を楽しくするお茶会」というのを催してみました。
突然の声がけにも関わらず6名の方が参加してくださり、
主催2人を加えて総勢8人で、
午後の3時から23時くらいまで、8時間ほど、
語りに語り合いました。

特にテーマ設定などはせず、みんなでそのときそのとき、
話したい話題を「楽しくおしゃべりする」という感じ。

お試しでやってみたのですが、そういうニーズはあるんだな、
ということがよくわかりましたので、
今後も折を見てトライしてみたいと思います。

ご参加くださった皆様、一緒に主宰してくださった一万字さん、
ありがとうございました。

ところで、なぜそのような会をやろうと思い立ったか、と申しますと、
ちゃんと理由があります。
この国には政治のことをちゃんと話し合う文化がないということ。
それを醸成しないことには、決してこの国は変わらないから・・・。

政治を話し合う文化がない理由は主にふたつあると感じます。
ひとつには心理的安全性を確保できないという理由。
もうひとつは、政治の話をする、というスキルがないという理由。
そのふたつの理由をルーツ・シンキングで
「それはなぜ?」と辿ってみましょう。

心理的安全性を確保できない理由は、
政治の話をすると変わった人に思われるということがあるからですね。

なぜ変わった人に思われるのか?
それは恐らく、盲信しているように見えるからです。

なぜ盲信しているように見えるのか?
それはムキになってしまったり、語気を荒げてしまったり、
他人の意見を聞けなくなって冷静さを欠いてしまう、
もしくはそう見えてしまうからだと思うんですね。

特に山本太郎さんの集会で、こういう現象が目立っている気がしています。

だから、政治の話をすると「あっちの側へ行ってしまった」と思われる。
新興宗教にハマってしまった人のように。
そういう現象があるから、そう思われないようにするには
日常生活の中では政治の話を避けるしかないのです。

話題を避けると、政治を語り合う言論空間そのものが失われますから、
政治の会話に慣れていく場が存在しないという悪循環になります。
ですから、「ここでは政治の話をしていい」という
心理的安全性を確保した場が必要だと思ったのです。

では、政治の話をするスキルがないのはなぜでしょう。
これは先ほどの話とつながっていて、ムキになったり、
冷静さを欠いたりしてしまう、という現象として表出します。

「野球と宗教と政治の話はしてはいけない」とはよく言われますが、
それは喧嘩になってしまうからですよね。

では、なぜ喧嘩をするのか、
といえば、「意見」と「人格」を分けられなかったり、
自分とはちがう意見の人の存在を認めることができないからです。

そこには日本語特有の言語文化も影響していると私は感じます。
英語の文化はイエス・ノーがはっきりしているからこそ、
自分とちがう意見の人が存在するのだ、
ということを文化が隠そうとしません。

しかし日本は物事を有耶無耶にするのが得意な言語文化ですから、
はっきりと対立軸を指し示すと、
心がうまく適応できなかったり、上手に対処できないんですね。

ですので、日本では「楽しい会話にする」という手法以外では
なかなか政治の会話を一般化することはできない気がしました。
ですので、たとえ自分とちがう意見の人とでも楽しく会話する、
という訓練が必要だと思ったのです。

そういう草の根の活動によってしか民主主義は根付かないのでは?
と思ったんですね。
普段から政治の会話をする場がないから、対話集会的なものがあっても
ちゃんと対話にならないケースもあるな、と感じるようになり・・・

それでやってみたのですが、
それほど意見のちがう人がいなかったこともあったかも知れないですし、
集まってくださった皆さんが素晴らしい方ばかりだったので、
非常に楽しく、有意義な場が展開されました。

これはつづける価値がありそうです。

その場でも、私の個人的な意見としてお話ししたのですが、
最近、私はあることがとても気になっているんです。

それは「暮らし」というイシューが、国政選挙において
どれほど重要なイメージを持たれているのか?ということについてです。

というのも、この現代社会は大きく言うと
資本家側と庶民側に分かれているわけで、
今は資本家側の政権が政治を取り仕切っていますが、
有権者というか、国民の中に占める庶民の割合は、
資本家側にくらべて圧倒的に多いわけですよね。

それは昔からそうであるはずです。

それなのに、なぜ「暮らし」や「生活」を高らかに掲げる政党が
政権をとったことがこの日本にはないのでしょうか。

不思議じゃないですか?
そこで私はこんな仮説を持つに至ったのです。

日々の暮らしは、例えれば手漕ぎボート。
誰もが自分の暮らしが良くなればいいと思っているわけです。
だから、自分に都合のいい政策を掲げてくれる政治家に
がんばって欲しいと思う人は一定数いる。

しかし、国家というのは巨大なタンカーなのかも知れない。
その操縦法は、手漕ぎボートとはまるでちがうセンスと技量が求められる。

だからこそ、手漕ぎボートの話しかしない人たちに、
タンカーの操縦を任せるのは不安なのではないだろうか?ということです。

区議会や市議会、都道府県議会なら
「暮らし」が最重要課題でいいでしょう。
でも国政ではそうはいかない。きっと。それだけではダメ。

家計と国家では使われるお金の金額も桁違いです。
それは一人の人間が日常の中で取り扱う額を遥かに越えているので、
ふつうの人には想像だにできない数字です。

でも、それを理解し、ある巨大なプロジェクトを実施するには、
だいたいこれくらいの場所と、これくらいの人数と、
これくらいの金額が必要だろう、ということを肌感覚的に
サッと判断することができなくちゃならない。

そのセンスがあるのか?ということ。
1000万円なんて金額は、そういう尺度で言うとものすごく安いわけで、
それを自分のお財布にある金額とは別の頭で
「こんなに大金」と思わずに
コントロールすることができるか?ということ。

これには特別な能力は必要なくて、
ただ単に「慣れ」だけが必要なわけですが、
庶民は圧倒的に慣れていないし、
慣れる場や訓練する場がそもそもないわけです。

これは経営者と労働者の間にもある感覚的な乖離ですよね。
だから、消極的なアクションとして
自民党だけに国家運営の票が集まるのだろうと、そう思うわけです。

庶民は、自分のスケールでしか物事を想像できませんから、
国家運営というダイナミックなスケールのことを「専門外」とか、
「想像外」に押しやってしまう傾向があり、

ダイナミックなスケールにある事象を
自分サイズのモノサシで批判することしかできない、
という悪循環があります。

これは、タンカーを手漕ぎボートサイズで解釈してしまう気持ちと同時に、
タンカーの操縦は皆目よくわからない、という、
相矛盾した考え方に板挟みになって、思考を放棄する、という結果に到達します。

文句は言うけど、変化を受け入れる勇気はないという状態です。
この二つの感情に挟まれて、矛盾をどうすることもできないと、
諦めの心境に至ったり、いたずらにルサンチマンに囚われるという
精神状態になってしまうのではないでしょうか。

政治に必要なのは、互いの壁を超えて事象を俯瞰する力です。
資本家側は庶民の側を、庶民は資本家側を、
互いに「同じ人間として想像する」というスキルが必要なのです。

そのスキルがないと、単なる水掛け論や
論破を目的とした溜飲の下げあいになってしまうのだと思うんですね。

それがわかってくると、いちばんいけないことは
「原理主義化すること」であり「過度に先鋭化すること」だということが
理解できてくると思うんですね。

今、野党に必要なことは「暮らし」という視点をしっかり固めた上で、
あえて大義を語ることだと思うのです。
ビジョンを語るということです。

それは「国家のあり方」です。国家観ですね。
どんな日本にしたいのか、ということ。

こういう話は保守・右翼だけがやるべきことではないのです。
それこそが「政権の受け皿」という物差しなのであって、
我々の暮らしだけでなく、国際社会はもちろんのこと、
地球や人類という視座までもを持った
国家観・国家ビジョンが必要なのです。

アメリカでは民主党はなぜ政権が取れるのか。
共和党と意見はちがうけれど、
決してスケールが小さいわけじゃないからです。

スケールが小さい人間に、国家の操縦は任せられない。
スケールのデカイ人間でないとダメなんです。

そして、ここで政治家には、
そのビジョンを「感動を持って伝える力」が必要なんですね。
結局、人は感動しなければ動きませんし、
感動すればそこには損得勘定や経済合理性を超えた「志」が生まれます。

歴史を動かすようなダイナミックなアクションは
ムーブメントなしには起こらず、
そのムーブメントは、文字通り「ムーブ」つまり、
感動することによって触発されると思うんですね。

マイクを持って人々に訴える候補者の皆さん、応援する政治家の皆さん、
あなたの言葉は、人を感動させていますか?
そのことを問うて欲しいのです。

正しいことはとても重要ですが、正しさだけでは人は動きません。
そこに感動が伴う必要がある。
そしてポジティブな理由を自主的に見出す必要がある。

ヨーロッパで脱炭素やSDGsがどんどん進んでいく理由は、
それが「我慢」ではなく、今よりいい社会になるというポジティブさ、
希望だからなのです。

希望がないのに、人は投票に行くことはできません。
私自身、推しの政治家の演説を聞きにいくのは応援ではなく、
自分が楽しいから行っています。本当に楽しいのです。

その楽しさをみんなが感じれば、政治の話に抵抗はなくなるし、
それを実現した状態こそが「民主主義」という状態なのですよね。

そういう文化を日本で作るには、
政治の話が怒りではなく、(入り口は怒りでもいいのですが)
楽しさに変換されることだと思っています。

政治の話を楽しくしていきましょう。
そして政治家の皆さん、候補者の皆さんは、人を感動させてください。
感動で涙させてください。
心を打ち震えさせてください。

最低賃金の話も重要ですが、それだけじゃダメです。
2050年、日本はどんな国になっているんですか?
若者たちが目を輝かせて、イキイキと生きている社会ですか?
そのための大義は? 北極星はどこにどのように掲げられるのですか?

だって、それを実現するのは政治家ではなくて国民自身ですから、
そのプロジェクトにみんなが乗る気にならなくちゃいけないわけです。
乗せてますか?有権者の気持ちを。

その言葉は、ひとりひとりの日本人や、
この国に暮らす人の心を揺さぶっていますか?
いてもたってもいられないような気持ちにさせていますか?

それができなければ、
自民党が作り上げた損得勘定に基づいた利権システムを越えて
人々が意志による投票行動はしないでしょう。

同じ一票でも、とても熱い、血の通った一票になるように。
それがこれからの日本と、人類を変えていくことになります。

これはジョークでもないし、根性論でもありません。
人が経済合理性を越えて行動するための真実です。

伝わることを祈ります。

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