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選挙の街宣を「うるさい」と思う人の心理

もうすぐ衆院選の投票日になります。
あと約1週間、候補者やそのスタッフの方々にとっては
本当に息もつけないほどの忙しさでしょう。

頑張ってください。

さて、私は選挙に立候補した人の演説、
いわゆる「街宣」というのを聴くのが好きです。

なぜかと言えば、やはり人の言葉というのは
直接聞かなければわからない部分があるし、
その人、本人を見れば、言葉以上の何かが伝わってくるからです。

しかも、どんなに有名な政治家でも選挙に落ちれば議員ではなくなるので、
誰もが選挙運動をするし、そこに行けば、
どんなに有名な政治家でも、直接会えるのです。

私は、せっかくですから、一人でも多くの人に
「街宣」を楽しんでいただきたいと思っています。

それがこの国が「民主主義国家」であることを
前向きに受け止めることだし、
ひとりの主権者として、国づくりに参加することであるからです。

私は選挙というものの大切さや、その意味について前向きなので、
街宣の声を「うるさい」とはあまり思わないのですが、
世の中には、わざわざ街宣の場所まで
「うるさい!」と伝えに来る人がいます。

今日も私がとある候補者の演説を聴きに行ったら、そういう方が現れて、
もっと小さな声でやれ、ボリュームを絞れ、と抗議していました。

どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。

少し考えてみようと思います。

例えば家にいて、近所から暴走族的な
バイクのエンジン音が聞こえてくることがあります。
夜中や早朝などに・・・。
我が家の近所では、まだそういうことがあるのです。

そういうとき、私も「うるさいな!」と思いますし、
あまりにも不自然に長い時間、そこでエンジンをふかし続けられると、
警察に電話のひとつもしたくなります。

無駄なので、まだ電話したことはありませんが。

もし、家のすぐ外で大声を出している人がいたり、
大音量で音楽を流しつづける人がいれば、
私も文句を言いに行くかも知れません。

しかし例えば、保育園や小学校が近くにあって、
朝夕に子どもたちの声がする、という場合はどうか。

そういうことに苦情を言う人がいて、保育園を作れない、
という話を聞いたことがあります。

もちろん、静かな環境が好き、という人にとって、
子どもたちの声に耐えられないという気持ちがあるのは、理解はできます。
でも、例えばそれが、自分の孫だったらどうなのでしょうか。

もしかしたら、許容度は少しだけ下がる場合があるかも知れません。

以前、所用でオーストラリアに行った時、
ホテルから見下ろす広場で、地元の人たちが演奏する
ライブが始まったことがありました。

窓を開けていたので、音が入ってきます。

私は音楽が好きなので、どこでやっているのか知りたくて、
窓から顔を出して見下ろしました。
結局、見にはいかず、部屋で音だけを楽しみましたが・・・。

心地いなぁと感じていました。

一体、何を言いたいのか、というと、人はある音を心地いいと思うか、
はたまたうるさいと思うか、ということを、
単なる音量だけでは判断していないのではないか?という仮説です。

私はもう子どもが大学生となり大きいので、
我が子が赤ん坊だったころのことを懐かしく思い出します。

だから、若い親子が赤ちゃんを抱いている光景を見ると、
とても微笑ましく思うのですが、
そういうとき、赤ちゃんが泣いていても「可愛いもんだな」と感じます。

でも、子育て中は、そう感じられなかったと記憶しています。

泣かれるたびに、これは何を欲しているメッセージなのか?と
必死で考えてしまうからです。
赤ちゃんの泣き声は、親に無視されないように、
わざと癇に障る周波数になっていると聞いたことがあります。
向こうにとっては死活問題ですもんね。

でも、今は気楽なもんなので、ただ「可愛いなぁ」とか、
「必死で泣いてるな」なんて思うのです。

マンションでの隣人の騒音問題で、こんなことを聞いたことがあります。

あまりにも隣人の騒音に神経質になりすぎると、
その人がたてる物音のすべてが気になってしまって、
少しでも音がすると壁を叩いたりして文句を言う。

こうなると、実は相手に抗議をするために耳を澄ましている、
という精神状態なのであって、
心が健全な状態ではないと言えるかも知れません。

ここまでいろいろ書いてきたのはつまり、
音に関して、その人がどのような心境で受けとめているか、
ということが「うるささ」の基準なのだ、ということです。

私が街宣をうるさいと感じないのは、
何を主張するのかを聞きたいと思っているからです。

街宣をうるさいと感じるのは、選挙を関係ないと思っているか、
もしくは、その人の主張を気に食わないと思っているか、
という心理が働いているからかも知れません。

確かに、我が子が赤ん坊だった時に、やっと寝ついたというタイミングで、
外で街宣車がやってきて、候補者の名前をただただ連呼していて、
「せっかく寝付いたところなのに、静かにしろ!」と
思ったことがありました。

でも、もしそれがお祭りの子供神輿の掛け声だったら、
果たしてそこまで腹が立っただろうか・・・

野党の人は、だいたい現状の政治に怒っているし、
同じように怒っている人に話かけているので、
口調が激しくなりがちになる傾向があるかも知れませんね。

もし目の前に怒っている人がいて、自分はその怒りに共感できない時、
やはり音量以上に「うるさい」と感じる気がします。

人にはいろいろな立場、いろいろな場面があって、
精神的に許容できにくい場合があるのは、じゅうぶん理解しています。

しかし、私は思うのです。

我々は日本という国に住んでいます。
日本は民主主義の国であって、つまり、
それは、みんなでこの国を運営していこう、というルールの国なのです。

しかしそのルールが今、蔑ろにされてしまっていると思うんですね。
それは本当に我々自身やこれからの世代の命に関わる危機だと思います。

その「みんなで」の部分を司っているのが
「選挙」という仕組みなのであって、
これは国民の迷惑にならないように、
どこかの片隅で静かにやることではないのですよね。

なぜなら一人でも多くの人がちゃんと参加した方が、
どう考えてもその仕組みの主旨に則っているからです。

それに、選挙とは、投票することだけが行動ではありません。

主張し、想いを伝え、その想いを理解してもらい、
その考えを一人でも多くの人に賛同してもらう、
つまり「広げる」というアクションが、選挙の全体像の中に含まれている。

だから、どんな国家像が望ましいのか、どんな社会に暮らしたいのか、
という普段はあまり考えない話題についてみんなに真剣に考えてもらい、
その上で投票してもらおうとする、という行為が、
当たり前のものとして認めらなければいけない。

そう思うのです。

もちろん、我々は好きで日本に生まれたわけではない。

だから、選挙などという面倒なことに参加しない権利があるのだ!と
声高に主張されれば、それも認めなければならないのだろうけれど、
そもそもそのように、「自分はこうしたい」
あるいは「こうしたくない」
と言える社会を約束しているのは一体なんなのか?
ということは考えるべきで、
何かしらを主張したいのであれば
(主張したくない、という主張も含めて)、
主張できる状況を守る、というのは、
我々主権者の責務であるはずなんですね。

「義務」ではありません。「責務」です。
「使命」と言ってもいい。

ちがうでしょうか。

選挙がうるさく感じる。
それは生理的な問題なので、そう感じる以上、仕方がないです。

うるさいと感じるな!とは言えません。

でも、うるさいと感じる本質的な原因が気持ちの問題、
「自分ごと化」の問題であるのであれば、
自分ごと化できればうるさいとは感じなくなる、
という可能性があるのです。

私は、これは、子どもの頃からの
「主権者教育」しかないと思っていますが、
それで次世代の子どもたちの意識は変えられたとしても、
今を生きているオトナたちの意識は、教育では変えられません。

主権者教育がしっかりしていれば、選挙があることや、
今、選挙期間中であるということなどの意味が、
もっと意識されるはずです。

たとえば、ねぶた祭りの期間中に、
「うるさいから、ねぶたなんかやめろ!」という人はいるのでしょうか。
もしかするといるのかも知れませんが、
行事としての意味と重要性が認識・共有されていれば、
少なくとも、赤ん坊が寝付いたばかりのお母さんにとっても、
理解できないものではない、と思えると思うのです。

もちろん、腹は立つかも知れないですが・・・

どうしてねぶたなら大丈夫なのに、選挙だとそう思えないのか?
そこに、私は、根本的な政治への不信との関係があると思えるのです。
あるいは、政治の話はタブーであるという習慣ですね。

そういうことが土台にあると、
選挙の時だけ声を上げている候補者というものを受け入れられません。
こんなときだけ「お願いします」なんて下手(したて)にでやがって、と。

でも、だからこそ、その人が何を主張し、信用できそうなのか、
ということを先入観なく感じ取ることができる街宣という場は、
本来はとてもいいチャンスなはずだと思います。

しかしそれには、選挙という出来事の意味を、どれくらい理解し、
自分ごと化しているかがとても重要で、
その礎になるのが主権者教育だと思うのです。

この国は主権者教育を蔑ろ(ないがしろ)にしてきた結果、
主権者であることを蔑ろにする主権者が生まれ、
彼らが選挙の本当の意味を理解しないことによって、
さらに国の質が低くなり、さらに主権者が蔑ろにされていく。

この悪循環が、戦後の、
特に高度成長以後の日本で起きてきたのだと、私は感じています。
これは投票率の低さという問題とも、
ガッチリと直結しているのだと思います。

問題は、その根底にあるのが
「他人のことなんか、知ったことじゃない」という、
個人主義の悪しき側面の弊害があることなんですね。

我々は民主主義国家に生きる国の市民ですから、
ひとりひとりに民主主義を成立させ、それを守る責務があるはずなのです。

民主主義の中心にあるのは、対話であり、伝えることです。
それを「うるさい!静かにしろ!」と言ってしまったら、
民主主義を破壊してしまう。

俺には静かな時間を過ごす権利がある、というのは、
もちろん基本的には正しいのだけれど、
それを選挙にまで当てはめてしまうと、
それは民主主義の否定になってしまうんですね。

私はそう思うのですが、皆さんはどう感じられるでしょうか。

戦争の時、灯火管制というのがありましたよね。
米軍の爆撃を避けるために電気を消し、
光がそとに漏れないようにすることです。

飛行機から見て灯りがともっているところに爆弾が落とされますからね。

例えが正しくないかも知れないですが、
例えばそういうときに、
「俺は暗くしたくない!」という権利は通じるでしょうか?

例えば、この国が戦争へと突き進んでいこうとするときに、
戦争反対!と声を上げることは、近隣の迷惑にならないように
静かにこじんまりとやらなければならないのでしょうか?

私は、今の日本の政治に、非常に大きな危惧を抱いています。
それは、価値観の問題なのですが、人の命をどのように解釈しているか、
という点において、かつて戦争に飛び込んでいった国家と
似たものを感じるからなのです。

だからこそ、この選挙はとても重要だと思っています。
戦前も、戦争に反対した人はいました。
けれど、その声を上げようとすると押し潰されました。

押しつぶしたのは国家であり、同調圧力という世論です。
ですから、社会的なメッセージに声を上げることの重要性を
ひとりひとりが理解しなければいけない。

そう思っています。

さして社会に問題もなく、今までのことを
これからもつづけていけばいいだけなら、
静かな選挙戦も可能かも知れません。

けれど、今のような先の見えない大変化の時代には、
やはり選挙はとても大切だし、そのことを認識していない多くの人に
選挙という機会にしっかり問いかけなければいけないのだと感じています。

街宣がうるさい。

この問題は、有権者が、有権者である自分を
蔑ろにしている問題かも知れません。
そして、政治への不信や人々の分断の問題です。
それらはニワトリとタマゴのように密接な関係で、
大人たちが自分で気づいて乗り越えるしかないのだと思います。


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