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「共感」と「誤解」のメカニズム:人はみな、ちがう言語でしゃべっている。

あの人とは馬が合う。
あの人の言うことは共感できる。

誰にでも、何人かそんな人がいるのではないでしょうか。

それは身近な人の場合もあるし、
直接には会ったことのない著名人の場合もあるかも知れませんが、
その人の言葉が「スッと入ってくる」ということがある。

あるいは、ある場面で出会った言葉が、
心の中に「スッと入ってきた」という経験はないでしょうか?

これは歌なんかにもありますね。
社会への怒りの感情や、伝わらない恋愛感情を歌った歌など、
自分にはまったく関係ないものと思っていたのに、
自分の境遇がそうなったときに急に心に届く。

そんな経験があると思います。

この、「言葉が通じる」という現象を、
ここでは「共感」と呼んでみたいと思います。

では、どういうときに、
コミュニケーションにおける「共感」は起こるのでしょうか?

この文章を読んでくださっている方々は、
恐らく日本人か、日本語がよくわかる方なはずです。

私は日本人で、日本語で考え、日本語で話します。
私は日本語という言語を使う人間だということです。

英語で考え、英語で話す方は、英語という言語を使う人ですね。

日本語は日本語がわかる人、日本語を使う人同士での
コミュニケーションのための言語です。

日本語の人には、日本語で伝える。だから伝わる。
当たり前のことのように感じます。

しかしですね、実際はちがうのです。

ちょっと概念的で理解しにくいかも知れないですが、
説明させてください。

我々、日本語を話す人々は、
同じ日本語という言語を使っているわけだから、
当然に自分の言葉が相手に伝わると思い込んでいるのだけれど、
それは実際には全然ちがうのですね。

ひとつひとつの言葉には、意味があります。
しかし、その意味の解釈は、人それぞれに微妙に異なっているのです。

そして言葉の解釈はどこまでいっても主観であり、
たとえその解釈が誤ったものであったとしても、
本人がそう思い込んでいる限り、その主観によってなされた解釈が、
その人にとってのその言葉の意味や印象なんですね。

しかも主観というのは他者と絶対に比較できないので、
言葉の意味・印象に違いがあってそれがどんなものなのか、というのは、
基本的には永遠にわからないのです。

ちょっと小難しい言い方になってしまいました。
ご理解いただけるでしょうか?

例え話をしてみます。

私たちの目が色をどのように解釈しているか。
そのメカニズムはこうですね。
目玉が光を取り込んで、その情報が脳に伝えられ、
脳がこの色は「赤」とか、「黄色」とか判断している。

その感じ方には個性があるので、例えば私が見ている「赤」と
あなたが見ている「赤」は微妙に違うのですが、
お互いに「赤だよね」と言って「赤」であることを共有しているわけです。

そして、それぞれの感じている「赤」が相対的にどれくらいちがうかを
互いに理解することはできません。
だってそれぞれにとってそれが「赤」なのであって、
実際にそう見えているのですから。

それと同じ現象が、実は言葉においても起こっているのです。

行きがかり状、実際にはこんなにシンプルではないですが、
色で例えてみますね。

「赤」という色を意味する言葉があります。
その赤がどれくらいの濃さ、明るさの赤なのか、というのは、
それぞれの人が主観的に判断していますね。

例えば「赤毛」という言葉がありますが、その赤さの具合はそれぞれです。

赤毛のアンのような赤毛をイメージするか、
パンクロッカーの人のような染めた赤毛をイメージするか、
人それぞれですよね。

もしあなたが誰かから、
「この荷物を、あそこにいる赤毛の人に届けてください」と言われた時、
あなたがイメージする「赤毛」と、
その人がイメージする「赤毛」が同じ場合、
結果はスムーズになりますが、それが違う場合はトラブルが起こります。

コミュニケーション不全ですね。

ここで重要なのは「赤毛の人に渡す」ということそのものは、
ちゃんと伝わっているのです。
つまり双方にとって、このコミュニケーションは
意味の上ではちゃんと成立している。

でも、「赤毛」の解釈がちがうので、機能としては伝わっていない。
そういうことです。

「赤」は色なのでそれほど振れ幅のない例えでしたが、
例えば「甘い」とか「臭い」とか「痛い」とか「苦しい」とか、
そういう感覚的なものに置き換えれば、
それがどれくらいなのか?ということはほぼ不明です。

それが「悲しい」とか「しあわせだ」ということになると、
とんでもなく解析不能なゾーンですね。

人は他者の言葉を、自分の中のその言葉と符合させて会話をしていますが、
言葉の解釈が厳密には同じではないので、
伝わっているようで、伝わっていないということはよく起こるし、
実はそちらの方が多いのではないか?と思うのですね。

今は具体的な単語や形容詞で例えたのですが、
それが口調だったり、あるいは「語尾」のようなものだったり、
言葉が持つすべての側面でそれは起こります。

同じ日本語という言語で会話していながらも、
それぞれが実は「それぞれの日本語」というちがう言語で会話している。

そう考えると、言葉によるコミュニケーションというものは、
必然的に大雑把なものであり、どこかに限界があるのだと思います。

それでも人は他者の言葉に「共感」することがあります。

その共感とはどんなときに、どのように起こるのか?というと、
それは、言葉を発した人と受けた人が、同じ言語で会話したときですね。

ここで言っている「言語」とは、その言葉の裏側にある常識とか、
込めている想いとか、
それを話し方に乗せていくときのニュアンスのあり方など、
言葉が持つトータルな印象のことです。

ここが共有できていると、人は共感しやすいのだと思います。
その人の言葉が抵抗なく頭に入ってくるし、
何を言っているのかを理解できる。

逆だと、なかなか入ってこないし、理解できない。

これは、世代間や、所属している組織など、様々な要因によって、
時と場合によって、あるいは思い込みなどとも複雑に絡み合っています。

子供たちには理解できても大人には通じない流行言葉。
仕事の現場だけで通じる言葉。
自分が好意を寄せている人の言葉には、
できるだけ自分が合わせようという無意識が働くことでしょう。

例えば、撮影の業界では「笑う」という言葉は、
カメラの画角の中に入っているものをすべて外に出すことを言いますが、
それを知らない人には意味不明ですね。

空気中にある二酸化炭素の量は、0.03~0.04%です。
その二酸化炭素が増えると地球の温度が変化する。
この0.03~0.04%という数字は、一般人からするととても少なく思えるし、
科学者にとってはとても多く感じる。

福島原発の事故の時に風に乗って撒き散らされた放射性物質の量は、
500mlのペットボトル1本分にもならないわずかな量です。
でも、それは放射能汚染としては、ものすごい量なんですね。

それぞれが持つ「常識」が、言葉の印象を決めている。

号泣という言葉が表すのは、どんな泣き方なのか。
「怒りしかない」とか「感謝しかない」とか、
そんな言い方で表される意味の度合いはどれほどなのか。

それは人それぞれなのです。
もちろんそれは、単語レベルだけではなく、
もっとニュアンスレベルのことでも、同じことは起きている。

コンビニで「お弁当あたためますか?」と言われた時、
親切だな、と感じるか、ムッとするかは、
その言い方のニュアンスから伝わる店員さんのそのときの気持ちと、
お客の気持ちが符合しているかどうかで決まってくるのでしょう。

たとえ素っ気ない言い方であっても、
放っておいて欲しい人にはそれが心地よく、
またそれに対する素っ気ない返事が、その場では適しているかも知れない。

余分な笑顔な必要ないと思っているもの同士であれば、
これはとても快適なコミュニケーションであるはずです。

ニュアンスとしての、言語の共有ですね。

言葉が持つ波長のようなものが合致する時、
人は「共感」するわけですね。

逆に言えば、それ以外の時は、つまりたいがいのときは、
なんとなく意味としては通じることはあっても、共感まではいかない。
そういうことなのだと思います。

これは、会社の中や家族の間や恋人同士、
学校での教師と生徒の間など、すべての「関係性」の中で起こるものです。

なんとなく、あの人とは言葉が通じやすいな、というのは、
その言語を共有している関係性にあるからであって、
しかもその関係性はときと場合によって変化する。

経営者には経営者の都合があり、労働者には労働者の都合がある。
場面場面での都合の変化もある。
だって人は気分が変わる生き物ですから。

みな、それぞれの瞬間的な都合の中で生きていて、
他者の都合を体験してみることはできないんですね。

そんな中で、言葉という一見共通のコミュニケーションツールを使って
意思疎通を図っているのだけれど、
その言葉にもそれぞれの都合や思い込みが入っていて、
しかもそれを知覚したり、客観視することはできないわけです。

その波長がぴったり合う瞬間に、人は心地よさを感じ、「共感」するし、
その波長が合わない間は、決して他者を自分ごと化することはない。

それでも我々が通じ合うには、言葉しかないわけです。

我々にできることは、
「言葉とはそのような性質がある」ということを理解し、
自分とはちがう言語の世界を生きる他者を
想像してみることだけなのですね。
それが「思いやる」ということなのだと思います。

言葉というものは、実はそれぞれの主観で持っているものであって、
完全に理解し合うことは永遠にできないのだ、という宿命を理解する。

そして、誤解ってそうやって起きているんだなぁと、理解することで、
所詮そんなものだ、と、心をゆるやかにするのがいいのだと思います。

そうすれば、ときどき人と共感したり、されたりすることがとても嬉しく、
その出来事そのものに、感謝の念が湧いてくると思います。

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