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落とした財布が返ってくる社会は、本当にいい社会か?

先日、大学生の息子と話していて、面白いことを聞きました。
日本にやって来た外国人が驚くことが二つあると。

悪い驚きがひとつ。いい驚きががひとつ。

悪い驚きは、駅の階段などで
ベビーカーを抱えた妊婦さんが困っていても、
日本人は手助けしない、ということ。

いい驚きは、落とした財布が交番に届けられて、
自分の元に返ってくるということ。

なるほど、と思いました。

私はよく食事の時などに
NHK BSの「世界ふれあい街歩き」という番組を観ます。
外国のとくになんでもないような場所をカメラが歩き回って、
そこにいる人々の本当に何気ない日常を切り取る
とても素敵な番組なのですが、そこでもちょっとしたときに
若者がお年寄りを助けたり、妊婦さんを助けたりするシーンに出会します。

その様子というのは、ある意味とても素っ気なく、
とてもさり気なく、「当たり前」な感じなのです。

「良いことをやってあげた」という態度もなければ、
「ありがとうございます!」という大袈裟なお礼があるわけでもない。
過度なコミュニケーションが発生することなく、
当たり前の光景として一瞬にして過ぎ去っていく。

そこがむしろ「素敵だなぁ」と感じてしまう。
でも、日本では電車の中で座席を譲るシーンひとつをとっても、
なかなか心理戦は複雑です。

「断られたらどうしよう」とかね。
実際に断る人もいるし、
「私はそんなに年寄りじゃない!」と怒る人さえいる。
スムーズなコミュニケーションが成立しにくい国民性は、
決して称賛すべきものではない気がしています。

親切というのは、する側も受ける側も、両方が参加して成立するものです。
現代の日本はそこがアンバランスなのかなと感じますね。

さぁ、「悪い驚き」の次は「いい驚き」の話です!

落とした財布が返ってくる。

日本ではよく聞く話ですが、
こんなことは外国では普通には考えられないことだと聞きます。

日本の素晴らしいところだ、と称賛されるところでもあります。
でも、そのメカニズムをよく考えていくと、
これって、実は全然いいことじゃないのではないか?と思えて来ました。

その件についてこれから話します。
少し混み入っています。

先日、ある方のお話を伺っている時に、こんな言葉が出ました。
「日本ではソーシャル・グッドという言葉が上滑りしている」

社会のためになること、というようなとき、
その言葉ばかりが一人歩きして、心が伴っていない場合が多いと。

ようするに「口だけ」で「意志が伴っていない」ということですね。

その方はアフリカの素材を使ったアパレルブランドを立ち上げて、
アフリカの人々の雇用を生み出すというアクションをされているのですが、
「アフリカと聞くだけで、良いことをしていますね、と言われる」と。

でも、それだけで終わってしまって、
実際にアクションをしようとする人がいない。

日本の企業は何か社会に資することをしようとするとき、
すでに何かをやっている団体に「寄付をする」ことはするけれど、
実際に自分たちで何かのアクションをする、ということは少ない。

これって、先ほどの「妊婦さんを助ける人がいない」と似ています。
で、問題は「言葉だけが上滑りする」というメカニズムです。

心を伴わない人々というのは、
何か行動をするときに「ルール」が必要なんですね。

「ここでは○○○をすること」
「ここでは○○○は禁止」

そういうルールです。
いいことをするのも、悪いことをしないのも、
「ルールがあるからそうする」ということです。

例えば日本では公園に行くと「スケボー禁止」とか
「ここでは野球やサッカーは禁止」とか、
いろんな禁止事項が書いてあります。

野球はだめならソフトボールはいいのか?
なんて屁理屈を言い出す人がいるから、
書かれる禁止事項がどんどん増えていく。

プールや公衆浴場に行けば「タトゥーが入った人は禁止」など。
注意書きだらけですね。

けれど、外国の方に聞くと、そんな国はあまりないらしいのです。
何がしていいことで、何がしてはいけないことなのか。
それは他の人の身になって自分で考えれば、わかることだからですね。

しかし日本人はルールに依存することを選んだのです。
公園の使い方で意見の衝突が起きた場合、
お上にルールを決めてもらって、いっそすべて禁止にしてしまおう。

そういうメンタリティがあるんですね。

この「お上のルールに従う」というところが
現代日本人の底流に流れている。
落とした財布は返ってくるが、妊婦さんは助けない、という行動は、
ルールで決められているかどうかによって分かれているのであって、
「心」で分かれているのではないのかも知れない。

本当に問題だと感じるのは、財布の件に関しても
「心で行動しているわけではない」ということについてです。

日本人が落ちている財布を拾った場合、
あまり躊躇することなく交番や駅の落とし物係に届けるでしょう。

その所作は「当たり前」になっています。
つまりそうすることが当たり前だからやるわけですね。

その当たり前は高い道徳性から来たように見えますから、
外国人は称賛してくれますが、
そこまで高い道徳性があるのに、
妊婦さんを助けないのは説明がつきません。

となると、財布を交番に届けるのは、
落とし物を拾った時は、届けることが「ルール」だからかも知れません。

そしてルールを守らない場合、
当然、何かしらの社会的制裁が加えられる場合もある。
財布を届けずくすねたことが人にバレたらどうしよう、
という気持ちも働く。

少なくとも、そう認識していることが影響している可能性がある。

余分なことは考えず、交番に届けてしまえば、
そのような煩わしいことは関係なくなる。
だから、深く考えなくていいようにするために、
届けているだけなのではないか。

そんなことを感じてしまったのです。

「駅で困っている妊婦さんがいたら、助けること」
それがルールで、助けなかった人は罰せられるとか
社会的に制裁があるなら、
日本人は進んで妊婦さんを助けるのではないでしょうか。

私が問題意識を持ったのは、
「それがルールだから従う」という行動規範には思考の放棄があることと
そこに「心」が不在になる危険性です。

この手の話をすると、必ず
「日本人はおもいやりがあるからだ」という意見が出ます。
電車で席を譲らないのも、
本当は譲りたいのだけど「断られるかも」ということがあるから。

断る側に思いやりがある、ということでしょうか。

日本のコロナ対策がすべて「お願いベース」であることは今や有名ですが、
そこから「自粛警察」が出て来たり、
「いっそ厳しいルールをつくって厳罰化した方がいい」
という意見が出るのは、
日本人に思いやりがあるからなのでしょうか?

私はそう感じません。
私は現代日本人に、思いやりを感じないのです。

むしろ生活の中のほとんどのことを「損得」で決めているのでは?
とさえ思えてくる。

現代の日本人は、自分に害が及ぶことを何よりも恐れるのです。
他人から迷惑をかけられることによって、
自分が損をすることが、とことん嫌なのです。

だから、そこにルールを作ってもらって
「誰一人、好きなようにできない」という
低いレベルの平等の状況をつくって
みんなで我慢しろ!というメンタリティを生んでしまうのだと思います。

本来なら、誰もいない公園でスケボーをやっても問題ないはずです。
そこに別の人が来た時に、スケボーの人たちが
スケボーをやっていない人にとっては
スケボーがどれほど怖いものかを理解し、
しかるべき行動を取れるとわかっていれば、
人はそれほど互いを恐れることなく、自分のしたいことをできるはずです。

つまり、お互いがある程度、他者のことも含めて
しっかり自分の頭で考えていれば、簡単にわかることですね。

しかし日本人は全員に一律に適用されるルールを望む。
これは、責任感のない人間が自由を手にした時に起こる現象です。
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」ですね。

先日、こんな記事を読みました。
ある小さな病院で、
靴ずれになってしまった患者さんに相談された看護師が、
病院のものはあげられないから、と、
自分の個人の持ち物である絆創膏をあげたそうです。

すると、その同僚が「個人のものをあげるべきではない」と
猛烈にその行為を批判してきた、と。

この件について、あなたはどう思うでしょうか。

私が思うに、その批判に働く心理は
「自分はそんなことはしない。したくない。」という人が
そのような行為のルール化を恐れるためではないかと思うのです。

一人にあげたら、全員にあげなければいけなくなる、という。
そして、自分は個人の持ち物を人にあげたくないのだ、という。

一人が親切心から行う他者への行動が、
それを行わなかった自分の人格を相対的に落としめていると感じ、
自分の保身のために「余計なことをしてくれるな」と思う。

これが、「他人の余計な行動によって、自分に迷惑がかかる」
と感じるひとつの例だと思います。

そして、そのような行動が当たり前に要求されるようになることを恐れ、
良き行動をした人間を批判的に見る、というメカニズムです。

欧米ではキリスト教を中心とした宗教の教えが
文化的に個人主義を下支えしています。

だから、個人主義的に振る舞っているように見えて、
一人一人が社会善について考え、行動する、という癖がついている。
目の前に困っている人がいたら、助ける、という。
(もちろん個人差はあります)
けれど今の日本人にはその精神的なバックボーンがないのですよね。

もちろん、以前はバックボーンらしきものがあったのですが、
敗戦によって手放した、というより悪しきものとして封印しました。

今はその傾向がいくところまで行って、
学校でも会社でも、「心を伴わないルール化」が横行しています。

これは、ことの良し悪しは別として、
日本人には行動規範となる心の拠り所がなく、
周りを気にせずただ好きなことをやる、という誤った個人主義と、
それを封じるために「ルールで雁字搦めにする」という傾向だけが
社会の中に彫り込まれてしまったからだと思います。

私は落とした財布が返ってくる社会が悪い社会だ、
と言いたいのではありません。

そうではなく、返ってくる理由に「心」が伴っていないなら、
それは逆に恐ろしいことの象徴かも知れない、と言いたいのです。

ここで言う「ルール」は、必ずしも法的なものとは限りません。
同調圧力というルール、村社会というルールも同じです。

日本を象徴する「恥」の文化は、「暗黙のルール」の文化でもあって、
恐ろしいことに、自業自得の文化でもある。
助けが必要になるのは、自分が怠けたせいなのだ、というようなことです。
だから助けを求めてはいけない。助けてもいけない。
そんな負の連鎖の文化ですね。

そのような文化は、マイナスに抗う、つまり「我慢する」とか、
「人に助けてもらわないようにする」という傾向には役立つけれど、
プラスな方向、つまり「積極的に人を助ける」という方向には
ほぼ効き目がないということですね。

「余計なことをして人に迷惑をかけるな」

という同調圧力が、日本人の行動から心を奪っている。
助ける、助けない、という人間性の在り方を考えたくない日本人は、
「ルール化」に頼って考えることを放棄してしまった。

ちがうでしょうか。

私は一人一人の日本人が、
自分ではない存在についてちゃんと思いやりを持ち、
同調圧力やルールによってではなく、
自分の考えで行動できるように変わる必要があると感じています。

今、時代は「ルールチェンジ」のときを迎えており、
これからの未来は、
我々自身の手で切り開いていかなければいけないからです。

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