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日本人のこれからと、「税は財源ではない」の弱点

去る11月21日に
拙著「お金とはなにか~命をかけるほどの価値があるかの検証~」を
デザインエッグ社さんより出版させていただきました。

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この本の中で「お金とはもともとなんなのか」ということを
かなり掘り下げて説明しているのですが、
この考え方は、MMT・現代貨幣理論に即した貨幣観です。

「貨幣観」と言う言葉そのものも、
あまり馴染みのない人も多いでしょうね。
まぁ、「お金とはなにか」という根源的な定義ですね。
私の貨幣観そのものはMMTではなくて
(その一部として包含していますが)、
そもそもお金というのは人間が勝手につくりだした妄想だよ、
というものです。

妄想だからこそ、「経済」という世界においては
GDPのようなデータ上の数値の積み上げを除けば、
自然界の物理ような方程式が存在するはずはないわけで。
(人間の思考や行動を方程式化できるなら話は別ですが)

経済を研究する学問としての経済学は存在してもいいですが、
人間の不確定性を含んだ経済という怪物を
定理的に説明する経済学は存在できないと私は思っています。
(哲学や心理学や「貨幣人間学」とか言うなら理解できます)

そういう視点ではありますが、貨幣というものの解釈は、
MMTは一定の正しさがあると私は思っています。
なぜならMMTは決めつけを行なっていないからですね。
既存の経済学が振りかざす
「人間は経済合理的な行動をとる生き物だ」という決めつけです。

そしてお金は人間が作り出したものであり、
特に現代の貨幣は自然界とは切り離された存在なので、
その発行量が既存の概念に縛られることはない
(別の概念に縛られています)
という説明は、少なくとも現実の貨幣を説明していると考えます。

ちょっと難しい話になってしまいましたか・・・
とにかく今日、書きたいのは、MMTを肯定する(私もその一人です)人々が
ネット上で「税は財源ではない」という言葉をつかうときの
ちょっと危惧される部分について考えたいのですね。

今の日本の「貨幣」に関する図式は、
日本は財政赤字が多すぎるから、それを減らすべきであり、
行政は税収の範囲内で行うべきだ、という考え方と、

政府による財政赤字というものは実は通貨の発行であって、
すなわち国民にとっての黒字であるから、
財政破綻の危険性はなく、むしろ経済不振が30年つづく日本では
国が通貨を発行して経済を回すべきだとする考えのふたつがあります。

前者の中心を担うのは財務省であり、
後者は、積極財政派と呼ばれる人々です。
代表される人としては自民党の西田昌司議員、立憲では原口一博議員、
れいわ新選組は、全員ですね。

与野党入り混じっていることからわかるように、
これはイデオロギーではないのです。

先ほどもお話ししたように、私の貨幣観はMMTを肯定しています。
しかし懸念している部分もあるのです。
何を懸念しているか、というのが、先ほど書いた
「税は財源ではない」という言葉です。
いや、その言葉の裏にあるマインドセットについてです。

ここで「税は財源ではない」という言葉の意味を説明しますね。

信じられない人もいるかも知れないですが、
国家運営に関して言えば、税は本当に財源ではありません。
国はお金を作る権能を持っているからです。
そして現実として、
政府は一年間の予算を先に無から作り出して、それを執行しています。
執行したあと、その年度末に税を徴収していますね。
つまり、先に使ってしまって、後から回収しています。
その流れを「スペンディング・ファースト」と言います。

この「スペンディング・ファースト」のことをして、
「税は財源ではない」といっているのです。
この言葉の悪いところは、
「税が財源ではないなら、では何が財源なの?」
という疑問を生むことです。

正確には「そもそも国家運営には財源はいらない」ということなんですね。
実際に財源なしにお金を無から作り出して使い、
後から回収というサイクルですから。

「税は財源ではない」を別の正確な言葉で言うなら、
「税に財源という機能はない」ということです。
あるいは「税は財源ではなく、お金の回収装置である」ということですね。

それともうひとつ重要なのは、これは国家予算に関してだけの話です。
地方自治体の予算は限られているし、税は財源です。
なぜなら地方自治体には通貨を発行する権能がないからです。
地方自治体は企業や家庭と同じように、
まずお金を集め、それを使っています。

ここまでいいでしょうか?

私がこの「税は財源ではない」や「お金は刷ればいい」ということに
ちょっと懸念を感じているのは、
日本人のリテラシーの低さという問題なのです。

現代の日本人のメンタリティは、伝統的な、あるいはイメージ上の
日本人のそれとはまったくちがいます。

お互い様の精神なんてないですし、もったいないの精神もない。
武士道精神も不動心も、何もない抜け殻です。
そのような無思考状態の日本人にとって、
「税は財源ではない」という言葉は非常に危険なんですね。

なぜなら、事実、国家はお金はいくらでも発行して大丈夫なのですが、
それには発行の仕方と回収の仕方が重要になってくるという意味であって、
打出の小槌のようなものではないんですね。

MMTは「お金を作ることは可能だ」とはいっていますが、
ただ発行するがままにしていていいとはいっていません。
お金がないから人を救えない、ということは実際避けられるし、
そうすべきですが、なんでもかんでもアリではないのですね。

そこをちゃんと理解できるだろうか・・・という懸念です。
今の段階でさえも、お金を発行していいのか、ダメなのか、という
二元論に議論が終始してしまっています。
でも、実際はそんなことではないわけですよね。

物事を深く考えることが嫌いな日本人に対して、
「税は財源ではない」の真意はちゃんと伝わるでしょうか?

財務省は「お金は限られた量しか存在しない」
というスタンスを取っています。
いくらでも発行していいものではない、ということですね。

私の意見では、実際には発行していいのです。
なんならいくらでも発行していいのです。

でも100兆円を一年で出してしまうのと、10年かけて出すのでは
まったく意味がちがいますよね?
お肉を焼くときに、遠赤外線でゆっくりやけば中まで火が通りますが、
直火で一気に焼けば一瞬にして黒焦げになってしまいます。

「焼く」ということだって、どれくらい時間をかけるかで
結果は変わってきます。
そういうことをちゃんと考えなくてはいけません。
しかし、どうやら日本人はそういうことを考えるのが苦手のようですから、
お金は出せるのか、出せないのかの二元論ですね。

そういう単細胞的な発想しかできない人間の手に、
「実はお金はいくらでも発行できる」という「言葉」を持たせるのは
甚だ危険だと私でさえ思うわけです。

日本のいわゆる「お国」側の人々は、基本的に日本国民を信じていません。
知的レベルが低いと思っています。
だから私たちにちゃんとしたメッセージを出さず、隠すんですね。
隠した上で、そのときになっていきなりトップダウンで命令する。
考える余地を与えないのです。

なぜなら、ちゃんと考えない連中に考えさせても、
変な結果になるだけだと思われているからだと思います。
つまり今の自民党や日本政府の信用ならない政治・行政は
国民の「自業自得」な面も大きいのです。

「お金は実は発行できる」ということを、
ちゃんと理性的に受け止められるか?
そこが問われているわけで、
現実の財務省は省益のために国民生活を苦しめていますが、
もしもそこまで見越した上で、おかしな貨幣論を振り翳しているとしたら、
財務省もなかなかのものだと言えるかも知れません。
(ちがうと思うけど・・・)

MMTのもうひとつの危惧は、
「経済を元気にして本当にいいのか?」という点です。

普通に考えたら、経済は元気な方がいいに決まっています。
しかし、今、地球環境は曲がり角に立っています。
それはあくまでも人類にとっての環境的な曲がり角です。

そして、そのような事態に導いた要因は、まちがいなく資本主義経済です。
いや、共産主義でも同じ結果になった可能性はあるので、
正確には「貨幣経済」ですね。

つまり「お金」です。

人類という種がこれからも持続可能であるためには、
経済というものとどう付き合っていくのかを
真剣に考えなければいけません。

だって、100年後にもまだ資本主義が存在すると思いますか?
100年後にはまだ存在すると思うなら、では1000年後ではどうですか?

1000年前というと1022年です。どんな時代だったでしょうか?
そして3022年に、今と同じ資本主義が存在しているはずはないと思います。
いや、もっと早くその終焉はやってくるでしょう。
その理由は、地球は有限だからです。

私は今までの貨幣観はまちがっているとは思うものの、
ではそれを正して経済をどんどん活性化させれば、
それでいい、とも思えない部分があるんですね。

私はお金の本当の姿をみんなで把握した上で、
地球への環境負荷のない、これからのお金と人間の関係性を
生み出す必要があると思っています。

その姿がどんなものなのか、今の私には見えていません。
でも、今のままでは未来がないことは見えています。
お金を見直すきっかけにMMT的な視座が役立つとは思っています。

将来的にこの国の未来がどのようなものになるのか、
今の段階ではまったく見えていませんが、
このままで日本の国際的なプレゼンスが
上がるということは考えられません。

その必然性や理由が皆無だからです。

しかし、唯一可能性があるとするならば、それはこの人口減少を
「今までとはちがう価値観に切り替える」という手法で
乗り切ることができた場合に、
その価値観で世界を牽引できるかも知れないということです。

少なくとも今のような「成長資本主義」は、
近い将来、確実に終わるでしょう。
そのときに「終わらせた側」に立つか
「終わらせられた側」にいるかで、そのときのポジションが変わります。

当然、終わらせられた側にいたならば、国であれ企業であれ、
その未来が明るいものになりやすいとは言えないでしょう。

今は本当にその岐路に立っていると思います。
現状の運営をしながらも、今までとはちがう社会を模索することは
神業的に難しいことだと思いますが、それをやるしかないのだと思います。

未来の世代のためにも、社会を変えていく側に立ちたいものですね。

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