見出し画像

勝利至上主義者ほど、その自覚がないという話。

一連の慶應義塾高校野球部のメディア報道や記事に
違和感を抱き続けているので、連投します。

今日は「勝利至上主義」について。

よく世間では勝利至上主義という言葉は
悪いこととして語られていると思います。

・・・ですよね?

勝利とはすなわち「結果」のことですから、
多くの場合、「プロセス」よりも「結果」を重視するということで
批判の対象になります。

しかし、多くの勝負を抱えた環境の指導者というものは、
勝利を求めることによってプロセスを成立させていますから、
実はプロセスと結果を分けて考えようとすること自体が
非常にナンセンスなんですね。

もちろん結果として何を求めるか?という問いの答えには
様々なバリエーションがあって良いでしょう。

さて、相変わらずメディアからベタ褒め状態の慶應高校野球部。

髪型、練習時間に加えて、「教育の質」というところまで
話は及んでいるようです。

そこのところは、実は非常にセンシティブな領域です。
なぜなら慶應義塾という学校には、
一般的に見て経済的に恵まれている子供たちが
集まっている環境だからです。

経済的に恵まれているということは、
恵まれていない子に比べて家庭環境の様子がちがっており、
子供たちは生まれてから大きく育っていく中で、
環境の影響を大きく受けてそれぞれの「常識」を作り上げますから、
慶應高校で通じることが、その他の場所で一般化できるかどうか、
ということは、なかなか難しい問題なのです。

理想論ではなく、現実として。

なので、教育の質を取り上げてベタ褒めするのであれば、
その原因はこの国の経済格差からくる教育格差と
分かち難く紐づいていることを理解した上で、
一人でも多くの子が格差のない状況で教育を受けられるように、
大人たちは行動しなければならないのです。

メディアの方々、そういう行動をしていますか?
言いっぱなしではいけないのですよ。

さて、実は今日、いちばんお伝えしたいのは
格差の問題ではありません。もちろん重要ですけどね。

今日は先にも書いた「勝利至上主義」の件です。

まず、皆さん、どうして今、
慶應義塾高校のことをこんなに取り上げているのでしょうか?

その理由は、「勝った」からです。
最初は激戦の神奈川県で、横浜高校を下して甲子園に駒を進めたから。

その後はトーナメントをどんどん勝ち進み、
ついには優勝、つまり頂点に立ったからです。

想像してみてください。
神奈川県の予選大会決勝で横浜高校に敗れていたら、
こんなに話題になったでしょうか?

でも、勝っても負けても、
慶應高校野球部の森林監督の指導は同じだったのです。
つまり世間様がその指導法を評価したのは、
勝利という結果が出たからなんですね。

つまり、指導法の良し悪しを勝利で測っているのです。
試合に勝てる方法だから、
いい方法だ、正しい方法だ、ということなのです。

「エンジョイベースボールなんだから勝利至上主義じゃない!」
と言い張るかも知れませんね。
でも、エンジョイベースボールはあくまでも
勝利を実現する手段なのであって、
エンジョイすることを通して勝つことを目標に置いているのです。

でなければ、河川敷で得点もつけずに試合すればいいわけですから。
勝つための方法としてエンジョイ〜という方法を選択しただけなのです。
それは慶應・大村主将の「願い続ければ夢は叶うと証明できた」
という発言からもわかります。

そもそもエンジョイというフレーズは
他校の子はエンジョイしていないかのような決めつけを印象付けますから、
既存の高校野球に対する監督の個人的なルサンチマンから来ているように
私は感じています。これは憶測ですが。

坊主頭ではなかったチームは慶應だけでなく他にもありました。
土浦日大とかね。

でも、慶應のように取り上げられていません。
彼らはエンジョイしていなかったとの判断かも知れませんが、
勝たなかったからかも知れませんね。

私が感じている違和感は、常にメディアと世間の取り上げ方です。
勝ったからこそ指導法として正しいと評価しているのに、
その片側で勝利至上主義を批判しているのです。

仮に森林監督が勝利至上主義を言葉の上では否定したとしても、
やはり「勝つことによって証明した」という段階で、
それは勝利至上主義といえるし、
それを誉めそやしている人々こそが、勝利至上主義者なのです。

しかし、問題は、
恐らくその自覚がないことなんですね。

神奈川県大会で惜しくも慶應に敗れた横浜高校。
その決勝戦では、誤審か?というプレーがあり、話題になりました。

この件を受けて、横浜高校の村田監督は、
試合中に選手を通して審判に抗議。
試合後は審判団に対して2時間ほど抗議をしたといいます。

大きな問題は、この監督の態度に対して、
世間が「高校野球らしくない」「グッドルーザーではない」と
大批判していることなのです。

そのときにもまた「勝利至上主義」というフレーズが出てきました。

勝利を求めていることはそんなにいけないのでしょうか?
勝つことを目標に全身全霊でがんばっている子供たちに対して、
監督には責任があります。思いもあります。

その表出の仕方が須江監督のようになる場合もあれば、
村田監督のようになる場合もある。

これは単なる多様性の問題であり、個性の問題であり、
めくじら立てて批判されるべきものではないと私は思います。

好き嫌いは別にあっていいですけどね。
好き嫌いと、自分が思うグッドルーザーの押し付けは
まったく次元の違う話ですから。

話の構造がちょっと複雑ですが、改めて整理します。

私は「勝利至上主義」そのものは良くないことだと思っています。
しかし私が定義する「勝利至上主義」は、
世間一般で言われているものとちがいます。

世間では勝つことを何よりも重要視することを勝利至上主義と呼んでいます。
プロセス(努力や姿勢)より結果を重視する態度です。

しかし私は真剣に勝利を目指すことは、なんら悪いことと思っていません。
なぜなら、勝利を真剣に追い求める姿勢が、
プロセスを良くしていくということを知っているからです。

そして、私が批判する勝利至上主義とは、
いざ結果が出たときに、その結果が思わしいものでなかった場合に、
これまでのプロセスを「無意味だ」と切り捨てる姿勢のことです。

勝敗が決するまでは、どこまでも勝利を追求すべきですが、
敗北という結果が出たときには(いや勝利したとしても)、
人間としてどれだけ成長できたか、ということだけに
その意義を見出すべきです。

本当に強いチームは、そのようにしているはずです。

そしてそのことは、部外者がグッドルーザーだと感じたかどうかは
まったく無関係で、当事者だけの問題なんですね。

私の違和感は、世間一般の皆さんこそが
勝利至上主義者であるのに、そのことを自覚せずに
成長のために真摯に勝利を追い求める姿勢を見せている人々を
勝利至上主義者と言って批判していることなのです。

本当にいいチームかどうかは、勝敗だけで決められるものではない。
まずその前提に立ってみましょう。

慶應義塾が優勝したから言うわけではない。
たとえ一回戦で負けていたとしても、
同様の価値観で評価をすべきだと思うんですね。極論ですが。

その上で、私はスポーツの目的・意義を人間成長と置いているので、
そのチームがその人にとって
本当にいいチームだったかどうかという評価は、
その人がそのあと何年も生きていく中で
作り上げていくものだと思っています。

「これからが、これまでを決める」ということです。

どこかの記事で、上記の横浜高校の監督を酷評する内容で、
「甲子園に行けなかったからと言って、人生が変わるわけじゃない」
というのがありました。

わかっていないなと思います。

甲子園に行けたか、行けなかったかで、人生は変わります。
でなければ、甲子園も、野球も、すべて無意味です。

ただし、良く変わるか、悪く変わるかを決めるのは、
本人たちの生き方次第です。
勝ったことがマイナスになる人生もある。
負けたことがプラスになる人生もある。

ただ、そこに意義を見出すには、
本気で勝利を目指して努力する必要がある。

そういうことです。

何歳になっても、成長をつづけましょう。
本人さえその気なら、人間の成長は一生つづきますからね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?