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社会の空気の圧力が、限界にきている、という現象。

今日は7月9日。土曜日です。
明日、投票日を迎える第26回参議院選挙の選挙戦最終日です。

しかし、今日という日が、昨日までの日々とまったく異なる点があります。

それは、昨日までは存在した安倍晋三さんという人物が、
今日はもうこの世にいない、ということです。

人は必ず、全員が、確実に、いつの日か死を迎えます。
そして、その死因というか、死に方には、その人固有の、
たったひとつ死に方が選ばれます。
本当に変な言い方ですが、人は、二種類以上の死に方を経験できません。

そのたった一度だけの経験が、いったいどういうものなのか。
多くの人は、そんなことは考えないでしょう。
でも、あなたも、私も、いつか、
そのたった一度の経験をすることになります。

安倍晋三さんという方にとって、
それは銃撃される、という、
銃規制があり、基本的には平和な国である日本の中にあっては、
かなり特殊な死に方で、お亡くなりになられました。

私は、政治家としての安倍晋三さんに賛同したことはほぼなく、
むしろ反対意見を持っています。
けれども、今、心の中にポッカリと
大きな穴が開いたように感じているのも事実です。

彼のやってきたことを今になって称えるつもりは、毛頭ありません。

そうではなく、人の死が、このように突然におとずれ、
人の人生がこのようにあっけなく終わるという現実に、
言葉にしてうまく表現することのできない空虚感を感じているのです。

犯人はどんな動機で行為に及んだのか。
それは、これから少しずつ明らかにされるのでしょうが、
私はそれでも、最終的には本当のことは誰にもわからないと思っています。

なぜなら、人の心というのは、自分のことでさえ、
その内容を余すことなく言語化し、
他者に伝えることができないものだからです。

また、この世のおそらくほぼすべての事象は、
たったひとつの原因から起こるのではなく、
数え切れないほどの多くの要因が複雑に絡み合って、
ひとつひとつの目に見える結果を表出するものだと思うからです。

犯人個人の「動機」や「人柄」という情報は重要でしょう。

しかし私はやはり、今回の出来事を俯瞰すべきだと思うのです。
視座を上げ、一人の市民が手製の銃をつくり、
そしてかつて総理大臣だった人物を射殺した、という出来事を、
現象として冷静に、感情論ではなく受け止めるべきです。

そこをまちがえてしまうと、私たちはまた、
とんちんかんな処方箋を書いてしまうからです。

このような現象はなぜ起きたのか。
これは力による言論封鎖なのか。
もっと別の出来事かも知れない。
これは何かの仕返しなのか? だとしたら誰への? なんの?

頭を回転させ、考えるしかないのです。

ここからは完全に私の想像です。
でも、日本中の皆さんに、提案したい解釈でもあります。

最近、痛感するのです。
例えば日銀の黒田総裁の言葉、
「家計は物価高を受け入れている」というのがありました。

これに象徴されるのですが、私たち、日本人は、
状況を受け入れる傾向があります。
これは今に始まったことではなくて、日本に暮らす民が
長い歴史の中で醸成してきた精神性です。

なぜそうなのか。私は大きく二つの理由があると思っています。
ひとつは災害大国だから。
この日本に暮らす以上、巨大地震や大津波など、
自然が我々に課す脅威から逃れることはできません。
日本人は、何度も何度も大自然からの理由なき理不尽を受け入れ、
それを乗り越えてきました。

そういう性質があると思う。

もうひとつは、島国であること。
私たちはこの地球上で唯一、日本語を話す人間です。
海に囲まれ、どことも陸でつながっていない国土に暮らす我々は、
容易に他の国で生きることはできす、
理不尽を強いられてもそれを受け入れて我慢する、という性質がある。

そういう性質を持った民と、権力というものが出会う時、
そこには「統治」とか「支配」と呼ばれる発想が現出し、
まるで支配者の課す理不尽が自然災害であるかのように、
我々は受け入れてきたのだと思うのですね。

それは「お上の決めたことだから」という言葉に現れています。

この発想は、もちろん、お上の側にも根深く醸成されます。
それが黒田総裁の言葉にも現れているし、
ここ30年の自民党支配の中で、特に第二次安倍政権以降に
強烈に進展していったものとして、我々は体験済みですよね。

しかしどうでしょう。
時代が変化し、人類が地球規模で関係性を持ち、
資本主義が行き過ぎた新自由主義に姿を変え、
自分さえ良ければいいという競争激化と、
自己責任を要求し、世の中から他者を思いやる気持ち、
これを人間性などと言いますが、そういうものを排除していった結果、
社会の空気が、人類がかつて経験したことのないほどに硬化し、
そこから逃れる術を知らない民の心が、
様々な方向に向かって暴発することが非常に多くなっていると思うのです。

私はやはり、今回の出来事も、
そのような流れと無関係とは思えないんですね。

世の中が、社会が、もっとおおらかで、
優しいものだったら、今回のことは起きているでしょうか。

わかりません。

でも、少なくともその可能性は今より低かっただろうと思うのです。
今回の被害者が安倍晋三さんでなければならなかった理由を考えると、
私にはそう思えてならないのです。

人が亡くなった時に、その人を批判するのは、
日本人の精神性として不謹慎であることは理解しています。

けれど私があえて今日、この日にこの文章を書いているのは、
安倍晋三さんの死が日本の歴史を、
さらに空気を硬化させる方向に急進展させる
引き金になることを危惧しているからなのです。

このようなことが起これば、武力には武力で、という発想にちかい気分が
社会の中に醸成されやすいことは歴史が証明しています。

しかし、私たちは今回の出来事を
日本の監視国家化や、警察国家化につなげては絶対にいけないのです。

なぜなら、それは逆効果であり、
人々の分断をより深め、この手の事件が今後さらに多く起こる
原因となってしまうかも知れないからです。

私たちは、こんなことが起きた今だからこそ、
投票日を明日に控えた今日だからこそ、
立ち止まって考えなくてはいけません。

本当にこの方向に進み続けていいのか?と。

メディアに圧力をかけ、国会で嘘の答弁を繰り返し、
今の政権に背後から圧力をかけていたと言われる安倍晋三さんは、
もういません。それは現実です。

安倍晋三さんはおそらく一人で官邸独裁を作り上げたのではなく、
彼を利用しようとした取り巻きによってそれは実現されたのでしょう。

人々のことを考えず、暮らしに寄り添わず、
一部の人の利権にのみ供し続けた元総理が、
理由はともかく、一市民によって射殺されたという現実を、
今、どう考えるべきなのでしょうか。

この顛末を。

これはいま、瞬間的に起きている事象ではなく、
根っこを辿ればずっと深く、ずっと以前から脈々とつづけた何かが、
いま、こうして目に見える形になっただけなのかも知れないのです。

その現実を、私たち今を生きる世代は、
どのようにとらえ、解釈し、次につなげていくのか。

大きな分岐点が、まさに、今日と明日なのです。

日本人は逃げ場のない民です。
だから、社会の空気圧が限界値を超えると、自爆してしまう。

そして今や、社会の空気圧は限界値に達しています。
私たちは、日本に本当のやさしさを
取り戻すべきときに来ていると思うのです。

誰もがもうわかっているはずです。
いま、動かなければ、引き返せない状況になるということを。

明日は参議院選挙の投票日です。
私たちは、投票という行動で、社会を良くしていく責任をもっています。

それが「主権者」ということですよね。

明日、7月10日。投票しましょう。
社会の暴走を抑えましょう。
社会の空気圧を下げるのは、私たち自身なのです。

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