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メディアリテラシーとは、メディアの思惑を知ること。

例えば手品師は、人の手品には騙されません。
いやむしろ、自分を騙せるかどうかでその人の腕を見るでしょう。

なぜだかわかりますか?

それは彼らが、
手品師という人種がいったい何をしようとしているかを
知っているからです。
手品師なんだから当たり前のようですが、ここがとても重要なのです。

手品の本質は、観客が思っているようなことではありません。
別のところにあるのです。
それを理解している人は、本質の部分に目を向けます。
だから、騙されないし、万が一騙された場合は、
その手品師を「すごい!」と評価するわけですね。

手品師が何をしようとしているのかを知っている。
この状態を別の言い方にするとすれば、
手品師は手品に関してリテラシーが高いということです。

目的をわかっているということですね。
その目的を達するために何をしているのか?という視点で
その事象を見つめるからこそ、そこから読みとる情報もちがってくる。

そういうことなんですね。
これは他の多くのことにも当てはまります。
例えば、メディアですね。

メディアの人間は、メディアの本質を知っています。
その本質は、受け手が思っているようなことではありません。

新聞記者は、他の新聞記者が書いた記事を読んで、
読者と同じようには反応しませんよね?
彼らが見ている部分は別のところにある。
そして、そここそが少なくとも現代のメディアの本質なのです。

今までにも何度かメディアリテラシーについて書いてきましたが、
今回も書きます。

具体的に、メディアリテラシーを高めるには、どうすればいいのか?

簡単なので結論からまず書きますね。
手品のリテラシーが高いこととは、
手品師は何をしようとしているのかを理解していることでしたね。

同じことです。

メディアのリテラシーが高いとは、
メディアが何をしようとしているのかを理解していることです。
これは別に陰謀論などではありません。
経済社会の中では必然的なことです。

順を追って解説してみましょう。

まず、メディアとは何をしているのでしょうか?
彼らは情報を売ることでお金を稼いでいます。

別の言い方をすれば、お金を稼ぐために情報を売っています。
八百屋さんがお金を稼ぐために野菜を売り、
魚屋さんがお金を稼ぐために魚を売っている。

同じことですね。

では次に、どんな情報がよく売れるでしょうか?
高く売れるでしょうか?

この思考だって、八百屋さんや魚屋さんと同じですね。
少しでもよく売れるものを仕入れたいし、可能な限り高く売りたい。
資本主義の中で、経済合理性を追求するなら、そうなります。
良心的な・・・という人は、
経済合理性を無視するから良心的と呼ばれるわけですね。

それもまた深いことですが、今は置いておきましょう。

どんな情報がよく売れるか。
メディアの人は、必然的にそういうことを考えているのです。

どんな情報がよく売れるかは、情報の受け手である我々が
自分の胸に手を当てて考えてみればすぐにわかることですね。

いちばん簡単なのは、「けしからん!」という怒りや、
「危険だぞ!」という恐怖の感情に訴えること。
そして、その怒りや恐怖が、可能な限り長続きすることです。
テレビのワイドショーでできるだけ長く放送できるネタこそが、
彼らにとって素晴らしい情報なのです。

かつて日大タックル事件がそうでしたね。
よく知りもしない、調べもしないメディアが、連日連夜、
悪意ある報道をつづけ、世論の怒りの火ができるだけ消えないように、
長く燃え盛るように薪をくべ続けました。

中国や韓国、北朝鮮の脅威論を、なぜこんなに煽るのでしょう?
今、メディアは野党第一党である立憲民主党をさんざん叩くわけですが、
なぜこんなに叩くのでしょう?

ご飯を食べるためですね。

共産党は怖いとか、野党はだらしないとか、
そういう感情に訴えるシンプルなメッセージは、
いちばん手っ取り早くカネになるのです。

彼らはそうやってメシの種をさがしています。
その内容が真実であろうが嘘であろうが、
疑惑でさえあれば、まぁ、究極的にはどちらでもよくて、
人々の話題にのぼりつづけさえすればいいのです。

わかるでしょうか?

もちろん、それが真実であることに
こだわりを見せる「ジャーナリスト」もいます。
そしてそういうジャーナリストに見せかけている人もいます。

メディアの本質はジャーナリズムにあると考える人もいるでしょう。
正義感としては私も同感なのですが、
今起きている現実はまったくそうではないのです。
ジャーナリストとて生身の人間である、
という制約から自由にはなれません。

その視点は後述しましょう。

私はカネのために記事を書き、ワイドショーを放送する
彼らに文句を言うつもりはありません。
誰もが仕事をして、金を稼いで飯を食べるわけで、
それが資本主義ですから。

悪いのは今の資本主義なのです。

さて、人々の話題にのぼるネタを探している
メディアの人間の尺度を知れば、
彼らにとっていちばん不都合なことは何なのかがわかります。

それは「平穏無事」であることです。

株のトレーダーは、株価の乱高下で金を稼いでいますよね?
株価が一切変化しなかったら、「差額」が生まれません。
つまり、株の取引をする意味がなくなります。

つまり株式市場が平穏無事である、という状態こそが、
トレーダーにとってもっとも不都合なことです。

それと同じで、メディアにとって情報の乱高下、
視聴者の感情の乱高下こそがもっとも欲しいものなのですね。

だから、もし平穏無事な日々がつづけば、
本当にしょうもない、取るに足らない出来事を、
無理やりにでも感情の乱高下の原因となるように「ネタ化」するのです。

当然のことですね。
ご飯を食べない人間がいない以上、経済社会での必然です。

もういちど確認しましょう。

メディアはメシの種となるネタを血眼で探している人種であり、
それは我々市民の感情を乱高下させ、
賞味期限ができるだけ長いものであること。
平穏無事がもっとも忌み嫌うことで、
平穏無事をぶち壊すためなら、ときには取るに足らない出来事を
世界最悪の出来事であるかのように騒ぎ立てること。

それがメディアのやろうとしていることの一側面です。

もうひとつ、側面があります。
それは情報によって市民の感情、世論を、
ある方向に向けたいという意志があることですね。

手品師は、手のひらの中にコインがあると思わせたい。
実際にはとっくの前から、その中にコインはないわけですがね。

つまり、手品の本質はストーリーラインを考えることなわけで、
観ている人に「こう思わせたい」という思惑があるわけです。

メディアにも、それと同じものがあります。
意図はそのときそのときの利害によって様々ですが、
メディアごとに、人々に「こう思わせたい」という思惑がある。

これは公正を謳う個人メディアなども同じで、
それは人間が主観を持ち、言葉でしかコミュニケーションできないという
限界がうむ避けようのない事実なのです。

そこから知っておかなければならないことは、
「真実はひとつではない」ということ。
真実は、それを語る人の人数分だけある。

厳密に言えば、その言葉を受け止める人の
心の数分がすべてかけ合わさった数だけある。

自然現象などでさえ、そうなのです。
起きたことを数値だけで伝えれば客観的かも知れませんが、
そこに少しでも別の情報を織り交ぜた段階で、そこに思惑が生まれる。

例えば天気予報を考えましょう。
今日の天気にしましょうか。

今日の最高気温は15度の予報だとします。
しかし、その15度という気温が、例年に対してどうなのか、とか、
昨日に比べてどうだとか、何かしらの情報を加えたときに、
それを聞く人の心に何かしらの影響を与えます。

たいしたことではない、という印象か。
あるいは、結構、大変なことだ、という印象か。
語り口ひとつで、いくらでも変えることができます。

気温ですらそうですから、政治など、
とんでもなく思惑が錯綜して当たり前ですね。

ここから感じ取るべきことは、
メディアが伝えていることは客観的な事実ではなく、
読む人に(つまりあなたに)こう思わせたいのだな、という誘導なのです。

昨年、真鍋淑郎先生がノーベル物理学賞を受賞されましたが、
その受賞そのものは単なる事実ですが、
そのことをどれほどすごいことかと伝えたり、
あるいは、あまり深く伝えなかったりします。

メディアの態度には、そのメディアが何を伝えたくて、
我々にどう思わせたいのか、ということが常に共存しているのです。

それを理解しておくことですね。

メディアリテラシーとは、メディアが何をしようとしているのか、
その意図を知っている、もしくは推測できるということです。
それを知った上で、彼らが発信する情報と接するという
態度を持ち合わせていることです。

メディアを鵜呑みにする市民を烏合の衆といい、
メディアを鵜呑みにせず、
それらの情報から自分たちの頭で考える市民を
賢い市民というのは、ちゃんと理由があるのです。

メディアは世間に情報ネタを流してお金を稼いでいる人々であり、
彼らにとっていい情報とは、
市民の感情の乱高下をできるだけ大きく、長くできるネタであること。

彼らには、平穏無事こそ避けるべきことであるため、
無理にでもネタを作り出す場合があること。

彼らには情報に、
我々をこのように思わせたい、感じさせたい、考えさせたい、
という思惑が常にあること。

それらを前提として理解した上で、
感情を簡単に動かされないように適当な距離を保ちながら、
その情報と接することができる態度を、
メディアリテラシーが高い、と呼ぶのです。

私としてはこんな態度でメディアからの情報と接することを勧めます。

メディアが言っていることは鵜呑みにせず、
「そう思わせたいんだな」と思うこと。

できれば「なぜそう思わせたいんだろう?」と考えること。

骨髄反射的に反応せず、「またそんなこと言っているよ」とまずは受け流し、
真実はどうなんだろう?と、様々な意見に接してみること。
その上で、その上位にある意図や意義を見つけ出すこと。

そして究極的には、
書き手の立場を想像してみることですね。
書いているのは、あなたと同じ「単なる人間」です。
どんなニュースも公正ではなく、その記事を書いた人の「意見」です。

「この人は私をどんな気持ちにさせたいのだろう?
 その理由はなぜだろう?」

そう考えてみることです。

書き手は、その記事を書くために命をかけている場合もありますし、
そうでない場合もあります。
今は後者が圧倒的でしょう。

その上で、主体的にひとつひとつの情報と向き合って、
自分の頭で考えて、
「これは信じるに値する。なぜなら〜」を持てるようにしましょう。

多くの人が信じているから、というのは理由になりません。
大衆は多くの場合、判断を誤る、ということは
人類の歴史が繰り返し証明していることです。

自分で考えることができないほど多くの情報に晒されるということは、
そもそも人間として感受不可能なことなのです。

しばらく情報から離れてみる、というのも、ひとつの手です。

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