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【映画記録】怪物を愛せよ

あらゆる意味で、真の怪物は人間だ。

映画「サイコゴアマン」より

 最終的に「人間が一番怖いよね」に着地するホラー映画は、「ヒトコワ系」というジャンルを築く程度には多数存在している。人間の鬱屈とした感情や得体の知れない思考回路は、幽霊よりもゴジラよりも怪物かもしれない。
 映画「サイコ・ゴアマン」もまた、人が怖い映画と言えばその通りなのかもしれない。登場人物がどいつもこいつもイカれている。しかし、着地点にあるのは「人間が一番怖いよね」ではない。人間が怪物であることを前提に、物語が進むのだ。

ある日、庭で遊んでいた少女ミミ(8歳)と兄ルーク(10歳)は、ひょんなことから地底に太古から埋められ、銀河で恐れられていた名前のない悪魔<残虐宇宙人>をよみがえらせてしまう。怒りと憎しみの感情しか持たず、計り知れない特殊能力を持った残虐宇宙人の復活により、地球は絶体絶命の危機に! しかし、光る謎の宝石をミミが手にしたとき、残虐宇宙人はミミに絶対服従せざるを得なくなる。暗黒の覇者でありながら1人の少女に逆らえない残虐宇宙人は、サイコ・ゴアマンと名付けられ、子どものいたずらに付き合うはめに。その頃、銀河系の怪人たちが残虐宇宙人の復活を察知、宇宙会議を開き、サイコ・ゴアマン抹殺のため地球に向かおうとしていた......。

Filmarksより引用

 粗筋からB級感と特撮感が迸っていて良い。高倉はこういうのが大好物だ。本編もまた、特撮愛とゴアが溢れる素晴らしい映画だった。
 以下、ネタバレを含みます!ネタバレ嫌だよーっていう方、まだ観てないよーっていう方は是非是非一度ご視聴の上お進みください。




 怒りと憎しみしか知らない残虐宇宙人のサイコ・ゴアマンと人間の少女が出会う、という構図は、映画「E.T.」や「ターミネーター」を思わせる。異世界、異次元からの来訪者は人間との交流を通じて愛を知り、人は日常を逸脱する快楽を知るのだ。しかし往年の名作が描く筋を裏切るかのように、サイコ・ゴアマンは徹頭徹尾残虐宇宙人である。愛を知れど本質が変わることは無い。
 そして往年の名作において、人間の少女は善良で愛に満ちているのがセオリーだが、サイコ・ゴアマンを使役する少女ミミはサイコ・ゴアマンを凌駕しかねない程度には凶悪だ。映画開始五分で兄を庭に生き埋めにしようとしていたので、この凶悪ぶりはサイコ・ゴアマンに影響を受けたものではない。サイコ・ゴアマンをペットの如く扱い、喧嘩腰の兄をサイコ・ゴアマンに殺させようとする、この凶悪は彼女の本質だ。
 この本質がミミ生来ものなのか、或いは家庭環境で培われたものなのかが定かでなくなる程度には、ミミの家族もちょっとずつおかしい。ミミの凶行になんだかんだ平然と付き合う兄、妙に繊細で家のことを何もしようとしない父、子供には過保護ながら他人はどうなっていても全然気にしない母。倫理観に難ありだ。
 ミミの倫理観を外れた凶悪性は、社会では生きづらいものだったろう。死体を見ても動じないミミ、銃声にビビりもしないミミ、残虐宇宙人とボールゲームをしたいミミ。世間一般の道徳観、価値観から大きく外れている。サイコ・ゴアマンがこんな生きづらい社会を端から破壊してゆくところに、ミミにとっての「E.T.」に似た快楽があったのかもしれない。

 物語はミミとサイコ・ゴアマンの交流(主従関係)から始まり、宇宙の命運をかけた戦いと家族喧嘩を同じ土俵に上げた戦闘に収束する。その中でサイコ・ゴアマンは愛を知るし、ミミは兄に謝罪できる程度の道徳を手に入れる。新たな力を手に入れたものが勝つのは条理だ。
 しかし、本質はそう簡単に変わらない。サイコ・ゴアマンはミミを殺さない選択をするが、それでも「銀河を滅ぼす」と宣言しては意気揚々と街を焼き、人を殺し、残虐の限りを尽くす。その背中を、ミミたち家族は笑顔で見送る。

 愛や情があったところで、怪物は怪物だ。残虐宇宙人は残虐なまま、サイコパス少女はサイコパスのまま。その本質が失われることは無い。
 しかし、怪物を矯正でなく肯定することだって、きっと愛に違いない。

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