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私が生んだあいつの人格はまんま私の人格なのかい

 古くから付き合いがある地元の友人に、ようやく書き上げた小説を読ませた。数日後、作品の感想を聞かせてくれるという。意気揚々と食事の約束をして彼女に会うと、言われた。

「共感できるところが何ひとつない」

 だよねー! そう口では言いつつ、心の中では涙の豪雨だ。構想十年以上、執筆に入ってからは半年以上がかかった。言いたいことのほとんどを詰め込んだ。それが身近な人間にすら受け入れられなかった。

 気になったのは「主人公が嫌な奴すぎて感情移入できなかった」という感想。正直驚いた。筆者自身には、主人公をそこまで嫌な奴に仕上げた自覚がない。
「こういう奴いるよね」
 と言いつつ、
「でも絶対関わりたくない」
 と切り捨てられた。では、そんな嫌な奴を生み出した「私」は、彼女にとって、嫌な奴ではないのだろうか。

 私はその主人公ではない。彼の人格が自分の中にあるのか。と、聞かれると妙に曖昧な気分だ。が、自分の中にある想いは、間違いなく彼で表現した。でも、彼は私ではない。彼は彼だ。

 芥川賞作家・高瀬隼子さんの小説に「うるさいこの音の全部」という作品がある。冒頭、夢の中の描写で始まるのが印象的。しかしこれは、作家である主人公が書く、小説の冒頭なのだ。つまり、作中作。この作中作はその後も度々描かれ、その作品で主人公は、のちに芥川賞を受賞する。

 作家が描くものはあくまで創作であって、主人公と作家は別の人格であり、そんな物語を書く高瀬隼子さんの人格もまた別のところにあるのでは。「うるさいこの音の全部」で、そう考えさせられた。

 主人公の人格が受け入れられなかったことで、まるで自分自身が否定されたように感じる痛み。それでいて、生み出した作品の人物を、まるで自分自身の人格すべてのように捉えられると、否定したくなる矛盾。

 人間そんなに綺麗なばかりではいられないし、表立って出さないけれど、感じることはいくらでもある。そういう部分にこそスポットを当てたくなるのだが、そこ一方だけでも魅力はない。

 友人にとって、主人公が魅力的に映らなかったのは、筆者の実力不足と受け止める。ただ、主人公を「いい奴」にしたい訳ではない。誰かに愛されるためだけの「いい奴」に、私がしてはいけない、そんな気がする。

 いい奴じゃなくても、いいよ。そう言って誰かに抱きしめてもらえるような作品にしたい。そうすれば、私の中の主人公も、少しは救われるのだろうか。

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