唐茄子屋久次

 酒を飲んでも、ギャンブルで大勝ちしても、適当な女を抱いたところで、満足なんて得られない。酒を飲んだら、酔いが醒めてしまう。ギャンブルをしたら、いずれは必ず金を失う。どんな女を抱いても、いつかはきっと、飽きてしまう。どこかできっと飽きてしまう。一緒にいれば、それが当たり前になり、気に入らないところに目が行き始める。人は、不満を見つけるのが得意なのだ。いつも、上昇気流の中にいなければならない。生きているっていうのは、いつだって戦いなんだ。上昇気流と言えばポジティブな響きだ。しかし、みんな知っている。上昇気流が生むのは、雨を降らせる雲なのである。雲ができたら、きっと、ああ、なんで自分はここにいるんだろう。
ここじゃない。
もっと、もっとだ。
そうやって、今いる場所を捨ててでも、前に進むしかないと信じている。
 わかっていてもやめられない。このままじゃだめだと思っていても、そこに居続けてしまう。そんな弱さを誰もが抱えている。うまくやっていける人間もいれば、脱落していく者もいる。
 久次は親の資産を食いつぶして、日がな一日ごろごろ過ごしている。気が向いたら女のいる店に行っては、金にものを言わせて、好みの女性を侍らして、目の前の楽しさだけを追いかけている。30歳にもなって、そんなことばかりやってどうするんだ。真面目に働け、と言われても、ただただ、無視を決め込む。俺のことなんて放っておいてくれ、そういわんばかりの放蕩ぶりだ。親の資産といっても、親が死んだわけではない。母親はいつかきっと、目を覚ますだろうと思っている。あえて触れず、遠くから、きっと改心する日が来るはずだと信じている。ところが残念ながら、往々にして、このような切なる願いというのは叶わない。これだけ強く願っているのだから、あの人に届くはず、ということは、ないのである。神も仏もいないのだ。父親は、仕事人間で、家庭のことを顧みることは少なかった。仕事を頑張って、1円でも多く稼ぎ、家庭に入れることが、家族の幸せにつながると信じてきた。家にはほとんど寝に帰るようなもので、時には職場で寝泊まりをすることもあった。父親は起業家で、常に新しいことに挑戦してきた。時には失敗をしたけれど、大きな借金を抱えることもなかった。働けば働くほど、金が手に入る。そんな職場環境が彼の肌に合っていたのだろう。勤め人も経験したことがあるらしいが、勤め人のほうが簡単だ、と言っていた。自分から動き出さないと、何も始まらないからだ。実際、勤め人であっても、そんな一面もあるだろう。結婚生活も、子育ても、またしかり。恋愛だってそうだろう。積極的に動かないと、自分がそこにいる価値が見つからない。いや、いる価値はある、かもしれない。君がそこにいる、ということが、どういうことなのか、決めるのは、もちろん君自身だ。
 父親は、自分の子供も、いつかきっと、働くことの楽しさを見つけるはずだと思っていた。世の中に存在する、最も楽しいエンターテインメントはビジネスだ、と信じている男だ。息子がどんなに遊んで暮らしていても、親父である自分の背中を育ってきた、自分の子供である。しかし、そんな背中に感銘を受けるほど、殊勝な年代は、とっくに過ぎ去っていたのだ。息子の久次は、大人になって、何もかも許されると勘違いしているのかもしれない。子供の頃、理不尽なほどに厳しく育てた人は、成長するにつれ、獲得した自由のありがたさを享受することができる。一方、子供の頃からなんでもござれで育てられると、自分の頭で考えることがない。制限の中で頭を使って正解を探す行為は、何もないところから一歩踏み出すことよりも容易だ。後者の難易度ははるかに高く、場合によっては大人になっても、何をしたらよいのかわからなくなり、途方に暮れるケースだってありうる。ひとそれぞれに適性はあるから、十把一絡げにまとめられるものではないものの、能力として、後者をできる人間ははるかに仕事でも優位になるだろう。生きる楽しさを見つける、という一見不毛な行為もまた、後者に分類されるものだ。
 さて、この久次、いよいよ父親に呼び出される。
「おい久次、お前、どうするつもりだ。」
「どうするって、このままだよ。」
「このまま、どうするんだ。」
「うまいもん食って、いい女と遊んで、毎日過ごすよ。」
「そんな生活、いつまでも続かないぞ。」
「それは親父が仕事やめるってこと?」
「いつまでも親をあてにするなって意味だ。」
「貯えがあるんだから、それでしばらく暮らせるよ。」
「ふざけたことを言うんじゃない。」
「なんだよ急に。今まで許してくれてたじゃないか。」
「黙認していただけだ。よくてほっぽらかしていたわけじゃない。お前が自分で気づくかと思っていたんだ。」
「そりゃ親父、親父が悪いよ。」
「なめた口ばかりきいていやがると、勘当するぞ。」
「かんどう?」
「絶縁だ。親子の縁を切るぞと言っているんだ。」
「俺には金をよこさねえって言いたいんだ?」
「そうだ。」
「なに、親父は俺に何をしてほしいの?」
「自分で自分の身を立てろ。」
「急に何を言い出すかと思えば…。」
「なんだ、その言い草は。」
「俺はどうすればいいのさ?」
「簡単な話だ、働けばいい。」
「働くったって、いまさらどうやって働くのさ。」
「何も、俺のようにいちから何かをはじめろ、と言っているのじゃない。商売を始めろ。」
「商売?」
「そうだ、商売だ。」
「何を売ればいいのさ?」
「かぼちゃを売れ。」
「は?」
「だから、かぼちゃを売れ。」
「なんでかぼちゃなのさ。」
「お前のお母さんの実家で獲れたかぼちゃだ。今が旬だ。今年のは一段とおいしくできているらしいから、お前、売ってこい。」
「かぼちゃだけを売るの?」
「そうだ。」
「そんなの売れるわけないじゃん。かぼちゃだけを売ってる八百屋なんて、聞いたことないよ。」
「八百屋じゃない。かぼちゃ屋だ。」
「かぼちゃ屋?」
「そうだ。季節になったら、梨とか桃とかトマトとか。それだけを路上販売している人たちがいるだろう。あれをお前がやれ。」
「暑そうだな…。」
「それくらい我慢しろ。別にタダ働きさせようなんて思っちゃいない。稼いだ分はちゃんとお前の小遣いにしてやる。」
「そりゃそうだろ。」
「なにを?」
「いや、なんでもねえ。働くってのは、金を稼ぐことだからな。」
「そうだ。働くってのは、”はた”にいる人間を”らく”にしてやることだ。その結果、お金を稼げるようになるんだ。」
「その言葉、どっかで聞いたことあるような気がするんだけど。」
「そんなことはどうだっていいんだ。いい言葉は誰が言ってもいい言葉なんだ。いいか、お雨、明日から、しっかり働けよ。」
「稼いだ分、全部もらっていいの?」
「ああ、いいぞ。」
「中間マージンとか、とらないの?」
「それはいい。気にするな。俺が買い取ってあるから、お前が売った分をお前の手間賃にしてやる。」
「それなら直接、俺にくれりゃあよかったのになあ。」
「そういうことを言えるうちはまだまだだ。いいか。お前、心を入れ替えてしっかり働けよ。これまでの遊んだ金も、女遊びも、目をつむってやる。いいか、今日、お前、今ここで、生まれ変われ。」
「そんなすぐには変われないよ。」
「いいや、変われる。人ってのはすぐに変われる。考え方が浸透するのに時間がかかることはある。だけど、変わるのは一瞬だ。今すぐ、ここで変われる。」
「もういいよ、わかったよ。」
「そうだ、準備が全部しておいてやる。お前は、店に立って、声出して、売れ。いいな。」
久次は父親に促されて、その翌日から、店頭に立つことになった。


 久次が店先に立つ初日、外は小雨がぱらついていた。晴れの日に比べたら、雨の日は売上が小さい、なんてことを想像していたが、あまりにも客足が少ない。全く売れる気配がない。このままここで適当に時間をつぶしていてもかまわないだろうと思ったが、少しは売って小銭が欲しい。どう転んでも、何のリスクもない、と久次はたかをくくっていた。今日も売り上げなかった、今日もだめだった、と続けていれば、親父も適当なところで気がおさまるだろうと久次は思っていた。商売は、頑張ったからといって、必ずしも売れるとは限らない。毎日お店に立って、声だけ出してれば、数日後には喉は枯れて、頑張った風なことなら簡単に演出できる。他人は所詮、その程度でごまかされてしまうのだ。売れる努力というのは、やる気とか、根気とか、そういうことではなく、需要と供給に基づく基本的な仕組みがビジネスには重要であるということを久次は知っていた。だから、小手先で他人をだまし、それなりのしゃべりでまくし立てれば、ごまかせるだろうと感じていた。人ってのは、年を取ると、他人に余計に干渉したくなるものらしい。こうしなさい、ああしなさい、これはだめ、あれもだめ。経験に基づいていることだろうから、間違いではないのかもしれない。しかし、若者は尊敬している人の言葉にしか耳を傾けない。そして、時代が違う。具体的なメッセージは、時として時代遅れになってしまっているときがある。その人が生きた時代もあるし、周囲の環境にもよる。ある瞬間を切り出して、それと全く同じ瞬間など、存在してない。だから、当事者が自らの信念に沿って、最終的には判断するしかない。百歩譲って、誰かのアドバイスにそのまま乗っかったとする。うまくいかなければ、心のどこかで、必ず、アドバイスした人のせいにしてしまうだろう。その可能性を断ち切りたい。自分の意志で、自分の判断で、道を切り拓きたい。久次はそう考えている。
 では、なぜ、商売させられるまで、放蕩していたのか?遊んでいたのか?それは、いつかきっと、働かなければならない日は来ると確信していたからである。いくら親の財産があるとはいえ、必ずいつかは働けと親に言われる。だから、今のうちに、許されるうちに、遊んでおこうと考えたのである。
 さて、雨が降る中、久次は、次の一手、どうしたものかと思案していた。雨の中、歩きながら、売り子でもやれば、きっとやる気をアピールできるだろう。ひとつも売れなくても、歩いて、歩いて、雨に濡れて家に帰れば、きっと頑張ったのねえ、なんていたわってくれるにちがいない。本来、誰かに褒められているうちは、まだまだ子供なのである。大人になったら、自分で自分のことを認めなければならない。自分で自分を教育・育成しなければならないのだ。久次は、かごをもって、かぼちゃを10個ほど入れて、歩き出した。雨に濡れたかぼちゃは、思いのほか、おいしそうに見える。かぼちゃの硬い皮の上に、雨のしずく。たまたま瑞々しく見えるだけか。
 歩き出したかぼちゃ屋の久次。声を出すのは憚られる。それはそうだ。恥ずかしい。雨の中、こんな猿芝居のような商売をさせられているのだ。妙なやる気を自分が出したばっかりに、勝手に自分で恥ずかしくなってしまうのだ。何をしているのか。全く、恥ずかしい限りだ。そもそもこんな姿、あまり人に見られたいものでもない。やりたくてやっているものでもないのだ。街中からそろそろと歩いて、人が少ないところへと移動してきた。街灯も少なくなってきて、周りには畑が見え始め、田んぼのあぜ道に入ってきた。
 夕暮れ時がそろそろ終わろうかという時、おばあさんと目が合った。小さい家で、6畳くらいの広さしかなく、トタン屋根だ。窓の外をうつろな目で見ている老婆。目が合ってしまったな、と思ったけれど、久次は無視した。
「ちょいと、おにいさんや。」
老婆に話しかけられる久次。
しまった。話しかけられてしまった。
「はい?」
「おにいさんは、かぼちゃを売っているのかい?」
「ええ、まあ、そうです。」
「声も出さずに、それで売れるかい?」
「いいや、それがね、売れないんです。」
「売れない?」
「ええ、そうですね。なかなか、かぼちゃが欲しいという人はいませんで。」
「そうなのかい?かぼちゃがおいしい季節なのにねえ。」
「ええ、そうですね。それでは、わたしはこのへんで。」
「わたしもかぼちゃが欲しいんだけどねえ。」
「ああ、すみません。失礼しました。お買い求めくださるのですね。」
「いや、それはできねえ。」
「は?」
「お金がないもんで、買うことはできねえ。ただ、食べたいなあ、欲しいなあと言っただけだねえ。」
「ああ、そうですか…。」
なるほど、金はないけど、かぼちゃを置いてけ、という話か。見かけによらず、なかなか図太い神経のばばあだ。
いやまてよ。ここでかぼちゃをばばあに恵んだとなれば、働いて金を稼ぐよりも、認めてもらえるかもしれねえ。情けはひとのためならずなんてのは、めぐりめぐって自分のためになる、という。こんなところでそんな言葉をつかおうものなら、罰当たりとでも呼ばれてしまいそうだが、まあいい。世の中、もちつもたれつ。意味が違うか。
「おばあさん、かぼちゃ、あげますよ。」
「いやあ、いいよお。」
「いいですよ、どうせ今日はもう商売になりませんし。売れ残りで悪いですけれども、もしよろしければ食べてください。」
「いいのかい?」
「ええ。」
「やっぱり悪いからねえ。」
「いいえ問題ないですよ。お気軽に受け取ってください。」
「すみませんねえ、おにいさん。ありがとうね。」
「いいですよ、お気になさらず。」
「本当にありがとうね。」
「全部あげますよ。重いですからね。家の中に運びますよ。」
「悪いねえ、本当に。」
かぼちゃを持って、扉を開けると、広間はひとつ。空間が全部、ひとつの部屋になっている。全部がリビングにでもなっているというのか、寝室になっているというのか、ただ、空間があるだけだ。その向こうに、年寄りが一人横になっている。おじいさん、つまり、この老婆の旦那さんだろう。ただ横になっているのか、体調が悪いのか、よくわからない。息をしているのかもわからないくらい、静かだ。死んでしまっているのかどうかもわからない。あまりにも静かだ。
「それじゃあ、ここに置いてもらおうかねえ。」
「あ、はい。わかりました。かご、もうひとつあるんで、もう一回持ってきますよ。」
「いいよお、そんなに。こんな年寄りはそんなたくさん食べられないからねえ。」
「そうですか?でも、せっかくなんで、持ってきますよ。」
「あのね、おにいさん。くれるのはすごくありがたいんだけど、本当にいらないんだよ。もう、これだけで十分だから。ね、どうもありがとう。」
「いや、本当にあげますよ。」
「おにいさん、恵んでくれるのはとても嬉しいんだよ。でもね、わたしも、引き取り屋さんじゃないんだ。そっちがいらないものを、もらってあげているわけではないんだよ。こんな年寄りが、かぼちゃをめぐんでもらっておきながら生意気だけどね、親切の押し売りってのは、迷惑な話だよ。今日はお金がないけれど、もし今度、またこの近くを通るようなことがあれば教えて頂戴ね。今日の分の代金は、必ず支払うからね。」
「いや、こっちは全然そんなつもりもないんですけど。」
「そんなつもりがなくてもね、気づかないうちに相手の気持ちを傷つけてしまうことがあるんだ。こんなおばあさんにも、人の気持ちってのがあるんだね。ああ、こんな年寄りが説教じみたことを話しても仕方がないね。とにかく、今日はどうもありがとう。また会えるといいねえ。」
「はあ、どうもすみません。では、今日はこのへんで失礼します。」
久次は何を怒られたのか、よくわからずにいた。いや、わかっていた。わかっていたけれど、どうしてそんなことをこんな年寄りに言われなければならないのだ、とだんだん腹が立ってきた。腹が立つ、ということは、一部分は真実をとらえているからじゃないのか。現実を突きつけれられて、なすすべもなく、ただ、認めるしかないから、腹が立つのではないか。そんな思いをめぐらしながら、久次は帰路についた。
 家に帰ると、父親が迎えてくれた。そのころには雨も上がっていた。半分だけ余ったかぼちゃは、ひとつのかごに入れておくとバランスが悪いから、ふたつのかごにわけていた。肩からかける分には、ふたつにそれぞれ半分ずつくらい乗っているのが、歩きやすい。
「おお久次、帰ったか。どうだ、かぼちゃは売れたか?」
「いいや、売れなかった。」
「ふん、そうだろう。商売は難しいんだ。その日の運もあるだろうが、売る人間の腕が如実に現れるものなんだ。今日は雨も降っていたからな、人の通りも少なかったろう。」
「人は少なかったね。」
「それでどうした?」
「え?」
「ずっと、外に立っていたのか?」
「いや、あまりにも人が来ないから、かごにかぼちゃ載せて、売り歩くことにしたよ。」
「誰かに言われたのか?」
「いや、誰にも何も言われていない。」
「自分でやりだしたのか?」
「まあ、そうだね。」
「お前、そんな機転がきくようになったのか。」
「あまりにも暇で、時間のたつのが遅いからさ、暇つぶしだよ。」
「ふん、暇つぶしで商売されたんじゃ、八百屋もたまったもんじゃねえや。それでなんだ?かごのかぼちゃを見ると、どうやら、少しは売れたみてえじゃねえか。」
「全然だめだよ。」
「だめってことはねえだろう。いくつかは売れたんじゃねえのか?」
「ひとつも売れなかったよ。」
「うん?それじゃ、そのかごには、最初からそのかぼちゃだけ置いていたのか?」
「違う。売れはしなかったが、恵んでやったんだ。」
「恵んだ?誰にだ?」
「ちょっと歩いたところに、田んぼがあって、その近くに汚ねえ小屋があってさ。そこに住んでるばあさんに恵んだんだ。かぼちゃが食いたいっているからさ。」
「おまえ、おばあさんに、ゆずったのか?」
「まあ、そうだ。」
「そうか。今日一日の間に、急に成長したな。だから、言っただろう?人ってのは、すぐに変われれるんだ。それに、いいことをしたと思えば、いい心持ちになるだろう。そのすがすがしさが生きているってことなんだ。働くってことなんだ。それで、そのばあさん、喜んだか?」
「喜びはしたけどね、今度、お金払うから、また来たら声かけてだって。」
「そんな無粋なまねはするなよ。声をかけるまではいい。でもな、代金なんてもらおうとしちゃいけねえ。元気そうでなによりです、これだけ言えばいい。」
「わかったよ。今日はちょっと、疲れた。もう風呂に入って寝たいよ。」
「よし、わかった。飯も食え。な、飯だ。」
「飯はいいよ。明日の朝食べるから。」
「酒は?」
「昨日までたくさん飲んだから、今日はいいよ。」
「珍しいな、酒を断るなんて。」
「今日一日ちょっと外で商売してきたくらいで、親父は甘すぎだよ。俺だって、そんな親父の思うようには育ってないかもしれないんだよ。」
「そんなことはどうだっていいんだ。お前、毎年、夏はかぼちゃ売れ。」
「は?」
「毎年、かぼちゃ売れ。趣味程度でも構わん。」
「こんなの趣味でもなんでもねえよ。」
「とにかく、仕事しろ。働け。最初は遊び程度でもかまわんから、仕事しろ。」
「仕事ったって、今日は何にも売れてないし。」
「そりゃ、お前の失敗だ。」
「なんて?」
「かぼちゃをおばあさんにあげたのはいいことだろう。けどな、それじゃ仕事にならん。優しいとか、親切とか、愛情とか、そういった聞こえのいい言葉では、生活はできん。だから、一円でもいいから、金を儲けろ。」
「どういう意味?」
「久次な、いつの世も、金を稼ぐってのは、正義なんだ。そういう世の中なんだ。良し悪しの話をしてるんじゃねえ、仕組みの話をしてるんだ。自分で稼いだ金なら、好きなように使えばいい。でもな、他人が稼いだ金を、たとえ、それが親の金であったとしても、我が物顔で使っているようじゃあ、三流よ。自分の手で、金を稼いでみろ。働くことが大切なんだ。大小にかまわず、一所懸命、ことにあたることが肝要なんだ。稼いだ金で何をしようと、あとはお前の勝手だ。」
「来年考えるよ。外で煙草吸ってくる。」
家の外に出ると、久次は煙草に火をつける。一息吸って、ゆっくりと吐き出す。
「どうせ働いたところで、青天井に稼げる人なんて、一握りだ。金儲けなんて、もう時代じゃない。あるにこしたこたあないが、何百万、何千万の大金が欲しいじゃない。俺が欲しいのは、震え上がるようないい女、息も止まるような緊張感、それを乗り越えた時の圧倒的な快楽。適当に結婚して、子供つくって、育てて、喧嘩して。そんな日常、まっぴらごめんだ。普通なんてのは、最低なんだ。俺は戦いたいんだ。自分以外のすべてに嫌われて笑われ者になって、たったひとりで孤独をかかえて膝を抱え込んだとしても、後悔しないんだ。そういう道を選ぶんだ。平々凡々で退屈な日常に気づきもしないくらい退屈な人間に、俺はなりたくない。極上の女を手に入れたときの高揚感も知らない男と、どんな話をしたって面白くもなんともねえや。おもしろいジョークも言えねえ男が、金儲けの話をしたってしかたがねえ。“商いは濡れ手で粟のひとつかみ”“守らせたまえふたつかみたち”くらいのことをさっと言ってぱっと理解できるくらいの知恵がなきゃ仕方ねえや。上にぶち抜けるつもりが、下にぶち抜けたとしても構わねえ。俺はやる。もう何も気にするこたあねえ。俺は、生きたいように生きてやるんだ。」

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