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檜垣是安の秘密

「檜垣是安の最期がどのようなものであったか。それを話すと、その人に必ず不吉な事が起こる」

 諸君は檜垣是安(ひがきぜあん)という悲劇の棋士をご存知だろうか?
 将棋ファンのあいだでは、雁木(「がんぎ」将棋の戦法)の創案者として、知る人ぞ知る棋士である。
 檜垣是安は、初代伊藤宗看(いとうそうかん)と「吐血の一戦」を闘った棋士としても知られている。
 慶長十七年(1612年)に創設された将棋家は、二代名人大橋宗古の代に伊藤家と大橋分家が誕生して三家になる。宗古の娘を娶り伊藤家を興したのが、対局相手の伊藤宗看だ。
 将棋三家の制が確立すると、在野の強豪棋士達が次々と将棋家に挑戦してきた。しかもその挑戦は、純粋な棋道探求の為というよりは、宗看のみを取り立てた将棋家への不満、宗看個人への敵愾心にかられてのものだったと言われている。
 在野棋士の挑戦を、宗看は一人で受けて立った。宗古名人の老齢も原因にあったが、宗看の実力は将棋家の中でも際立っていたからだ。宗看は松本紹尊、萩野真甫という当代屈指の挑戦者を退けていった。
 そして宗看が三人目に迎えたのが是安だった。承応元年(1652年)のことだった。
 当初是安は平手戦(ハンデなし)を熱望したが、宗古名人は「角香交じり」を主張して譲らず、対局前から険悪なムードだった。さらに、香、角どちらを先に指すかでも大いに揉めた。最終的には、世話役の計らいで、駒を振って決めることで落ち着いた。「振り駒」の制度はこの時から始まったとも言われている。
 一局目の香落ちは是安が奮闘してものにした。二局目は角落ちでの対局だった。
 是安はこの対局に際して、独自に編み出した新趣向をぶつけたが、宗看は巧みな駒さばきで優位を築き上げていった。そして終盤に入ると、宗看の必勝形になった。
 江戸時代の棋譜からは美しさ、潔さを感じさせることが多いのだが、この将棋はまったく別だった。悲壮なまでの是安の粘り、慎重を極める宗看の指し回し。それは凄まじいものだった。
 宗看の双肩には将棋家の権威だけでなく、存亡すらかかっており、是安は在野棋士の期待を一身に背負っていた。両者とも、絶対に負けられない勝負だったのだ。
 この将棋は決着をみるのに、161手も要している。
 この勝負に勝った宗看は二年後、宗古の嫡男三代宗桂をさしおいて三代名人を襲う。
 負けた是安は精根尽き果て、その場で血を吐いて倒れた。そして、間もなくしてこの世を去った。その死にざまは壮絶なもので、是安の恨みに満ちた表情を見た者が発狂したり、是安の呪いの言葉を聞いた者の耳が聞こえなくなったりと、話を聞いただけの者ですら震え上がるような怪死だったとも伝えられている。
 しかし、どのような死にざまであったかは謎につつまれていて、明らかになっていない。
 そしていつからか、檜垣是安の最期について話した人間には、不吉なことが起きると言われるようになった。
 
 時はかわり、大正初期の東京の話になる。
 私の曽祖父が将棋仲間で集まって将棋を指していたある夏の夜のことだ。見知らぬ男がやってきて、檜垣是安の話をしたいと言う。
「檜垣是安の最期がどのようなものであったか。それを話すと、その人に必ず不吉な事が起こると言われていて、誰も是安の話をしようとしない。だから彼について知っている人間はだんだん少なくなり、とうとう真相を知っているものは、この自分一人になってしまった。だから、是安の最期をぜひ話しておきたい」
 というのがその見知らぬ男のいい分だった。
「もっとも、この文明開化の世の中に、話せば不吉な事が起こるなんてあるわけがない。ま、思い切って話してみましょう。ぜひ聞いてもらいたい……」
 と話がここまで来て、いよいよ本題に入ろうとすると、なぜか男の話は初めの前置きに戻り、
「檜垣是安の最期がどのようなものであったか。それを話すと、その人に必ず不吉な事が起こるといわれていて、誰も是安の話をしようとしない……」
 と繰り返す。
 そしてそれが何度も続き、いくら待っても男は本題に入らない。
 とうとう仲間の一人がしびれを切らして、「早く本題に入ってもらえませんか」と促した。
「わかった。わかった。で、檜垣是安の最期がどのようなものであったか……」
 男は仲間の言葉に大きく肯き、喋り始めるのだが、また同じ事を繰り返し、いくら待っても、男は是安の最期の話をしなかった。
 いいかげんに飽きた曽祖父が、「ちょっと細君に電話をかけに行ってくる」と言うと、他の仲間たちも一旦トイレに立ったり、煙草を吸いに行ったりした。
 そうして、たまたまその部屋にはその男だけが残された。
 暫くして各々が用事を済ませ、その部屋に戻ってみると、その男はどこにもいなかった。
 たしか出口はひとつだけだったはずだが、とだれかが言った。もしその男が帰ったのであれば、入り口で電話をかけていた曽祖父は必ず気づくはず。しかし、曽祖父が電話しているあいだ、だれも通らなかったことを覚えていた。
 煙のようにいなくなった男に対して、仲間のだれかが、おれたちは幻覚を見ていたのだろうか、と言った。しかし別のだれかが、こうしてあの男のことをみんな覚えているではないか、と言って否定した。
 ほら、と言って、その男の特徴を話そうとした仲間は押し黙った。やがて、一同を見渡して、さっきの男はどんな特徴の男だったろうか、と訊ねた。
 ところが、その場にいた全員が、檜垣是安の最期を話そうとしたその男のことは覚えているのだが、男の特徴、例えば髭を生やしていただとか、髪の毛が長かっただとか、そういったことを、いっさい覚えていなかったそうだ。
 私はこの話を子供の頃、曽祖父から聞いたのだが、彼はこの話をしてくれた数日後に亡くなった。
 
 さて、ここからは令和の私の体験談だ。
 先月のある日のこと。私はふと入った神田の古本屋で、「檜垣是安の秘密」という本が書棚に並んでいるのを見つけた。是安という悲劇の棋士に興味を持っていた私は、その本を購入し、読んでみた。
 檜垣是安の出生や生い立ちについてかなり詳しく描かれてあり、しかも興味深い事がほかにも多く記述されていたので、私はどんどん本に惹き込まれていった。
 ところが、ある箇所を読んで、私は驚いた。その本には、是安の最期について、ことつまびらかに書かれてあったのだ。それは現代の将棋界の常識を覆すほどの驚くべき内容だったのである。
 話すと不吉なことが起こるという曽祖父の話は冗談だったか。彼にいっぱい食わされたな、と思ったが、そのときは是安の死にざまのことで頭がいっぱいだった。
 その夜、私は熱を出して寝込んでしまった。是安の死に際の表情が何度も夢に出てきてうなされ、熱は数日続いた。
 数週間が経ち、再度「檜垣是安の秘密」を読みたいと思い、部屋中を探したが、その本がどこにも見つからない。
 あれほど大切に扱った本なので、なくすはずも、捨てるはずもない。さらに一時間くらい探し続けたが、とうとう見つからなかった。
 仕方なく、探すのはあきらめて、再度購入することにした。出版社の名前は覚えていたので、その出版社に連絡しようと思い、電話帳やインターネット検索などで探してみたのだが、そんな名前の出版社はどこにも見つからない。「檜垣是安の秘密」という題名の本も探したのだが、どこにもない。
 私は狐につままれたような気分になった。
 幻覚を見ていたのだろうか。いや、そんなはずはない。なぜならば、実際に古本屋で本を買ってきたことも、本の内容に驚愕したことも、熱にうなされて悪夢を見たことも鮮明に覚えている。
 そこまで考えた私はあることに気づいて、背筋が寒くなった。あれだけ熱心に読みふけった本の内容を、私はきれいさっぱり忘れているのだ。是安の出生も、生い立ちも、そして死にざまについても、まったく思い出せないのだ。
 うす寒い思いがした。
 檜垣是安について、これ以上調べるのはやめよう。私は強く決心した。

 ところが昨夜のことである。
 私は夢を見た。私の魂だけが江戸時代に戻っていて、檜垣是安と伊藤宗看が角落ちで対局しているのを見ている。吐血の一戦と呼ばれた対局だった。
 対局は私の知っている棋譜通りに進んでいった。
 ところが、八十九手目で伊藤宗看が悪手を指した。私の知っている棋譜とは違う。そう思ったとたんに、是安の強烈な一手が指された。
 この手ではっきりと是安の優勢が確定した。是安はじりじりと宗看玉を追い詰めていった。
 見てもわかるように焦り始めた宗看と、余裕の笑みを浮かべている是安は対照的だった。私の目から見ても、手が進むたびに是安の勝勢は明らかになっていった。
 宗看が長考に入った段階で、世話係が茶を持ってきた。是安はにたりと笑みを浮かべると、その茶を一気に飲んだ。
 次の瞬間、是安は苦しそうな表情でもがき始めた。喉を押さえてのたうち回り、口から大量の血を吐いた。
 是安は必死の形相で宗看を睨みつけ「おのれ、盛ったな!」と呻くと、ほどなくして動かなくなった。
 私の夢はそこで終わった。

 翌日私は是安の秘密について考えてみた。
 吐血の一戦と呼ばれた対局は、本当は是安の優勢で進んでいったのだ。負けてしまっては将棋家の存亡にかかわるため、敗勢になった宗看側は狼狽した。
 将棋家は苦悩の末に、是安の茶に毒を盛った。毒を盛られた是安は吐血して亡くなる。当然その場にいた是安側の人間はすべて斬り捨てられ、秘密が葬り去られる。
 そうして偽の棋譜を作り上げ、伊藤宗看が勝ち、是安は吐血して亡くなったと世間に公表した。
 つまり我々は将棋家が作った偽の棋譜を、本当の棋譜として現代にまで残していたのだ。
 むろん将棋家側の人間にも、この不正を許せないと思う人間はいたに違いない。一人くらいは吐血の一戦の真相をどこかで話したはずだ。だが、その者はことごとく将棋家の人間によって抹殺される。
 つまり、是安の死の真相について語ろうとした人間は、すべて将棋家によって葬り去られてしまったのだ。
 そのことが、是安の最期を語れば、不吉なことが起きるという言い伝えの真相ではないだろうか。

 だが一つだけ腑に落ちないことがある。
 私はたしかに「檜垣是安の秘密」という本を読んだのだ。それなのに本は見つからず、内容はまったく覚えていない。これについては、なにも解決しないではないか。
 あたかも大橋将棋家が時空を越えて、将棋家の不祥事をひた隠そうとしているかのようだ。そして是安の魂も、時空を越えて将棋家の不正を世に知らしめようとする。両者の怨念のようなものが現代にまで残っていて、しのぎを削っている。そして、私がその怨念の渦に巻き込まれてしまった……。

 檜垣是安の最期がどのようなものであったか。それを話すと、その人に必ず不吉な事が起こるといわれていて、誰も是安の話をしようとしない。そして真相を知っているものは、現在では私一人だけだろう。だから、是安の秘密について、ぜひ話しておきたい。
 もっとも、この令和の世の中に、話せば不吉な事が起こるなんてあるわけがない。だから思い切って話してみることにしよう。ぜひ諸君に聞いてもらいたい。
 檜垣是安の最期がどのようなものであったか……。

 あっ、諸君はすでに知ってしまいましたね。

(了)

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