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【パロディ】夢十夜(第十二夜)

 第十二夜

 こんな夢を見た。
 自分の部屋を退がって、廊下伝いに名人戦が行われている桔梗の間へ帰ると本榧の足付き七寸盤に駒が並べてある。片膝を座蒲団の上に突いて、一手指した時、遠くの部屋で、おおっ、と叫ぶ声が聞こえた。同時に周りの空気があわただしくなったような気がした。
 戦型は角頭歩戦法からの力戦である。角頭の歩をついてきたから、熱くなってその歩を咎めようと無理をしたら、無茶苦茶な力戦になった。自分は元来矢倉や穴熊などじっくり囲って戦う将棋が好きである。それなのに挑戦者の挑発に乗り、奴の狙い通り居玉で仕掛けてしまった。新しい日向榧の独特の香りがいまだに臭っている。自玉を見ると必死がかかっているので即詰みに討ち取らねばならない。
 立膝をしたまま、左の手で座蒲団を捲って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直して、その上にどっかり坐った。
 お前は名人である。名人なら詰みが見えぬはずはなかろうと挑戦者が云った。そういつまでも考えているところをもって見ると、御前は名人ではあるまいと言った。人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜しければこの局面を詰ましてみろと云って、一手指すとぷいと向をむいた。怪しからん。
 脇に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと詰ませて見せる。詰ませた上で、今夜また名人を防衛する。そうして挑戦者の首と詰みと引替にしてやる。詰まさなければ、挑戦者の命が取れない。どうしても詰まさなければならない。自分は名人である。
 もし詰まさなければ自刃する。名人が辱しめられて、生きている訳には行かない。綺麗に死んでしまう。
 こう考えた時、自分の手はまた思わず布団の下へ這入った。そうして相手の駒台から掠め取った香車を引き摺り出した。ぐっと香車を握って、誰にも気づかれないよう自分の駒台の上にそっと置いたら、場の空気が一瞬凍り付いたので、慌てて香車を手に取った。凄いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。そうして、ことごとく駒台へ集まって、殺気を盤上一点に籠めている。自分はこの鋭い香車が、無念にも敵に使われて、自玉が即詰みになったことを想像して、たちまちこの香車で王手をかけたくなった。身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている香車がにちゃにちゃする。唇が顫えた。
 再度さりげなく香車を駒台へ収めて完全に自分の持ち駒にしておいて、それから全伽を組んだ。――挑戦者曰く長考に好手なしと。長考とは何だ。挑戦者めとはがみをした。
 奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。こめかみが釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。
 懸物が見える。将棋盤が見える。畳が見える。挑戦者の薬缶頭がありありと見える。鰐口を開いて嘲笑った声まで聞える。怪しからん挑戦者だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。悟ってやる。即詰みだ、王手だと舌の根で念じた。集中しているのにやっぱり日向榧の香がした。何だ将棋盤のくせに。
 自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云うほど擲った。そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。両腋から汗が出る。背中が棒のようになった。膝の接目が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。詰みの筋はなかなか出て来ない。出て来ると思うとすぐ消える。腹が立つ。無念になる。非常に口惜しくなる。涙がほろほろ出る。ひと思に身を巨巌の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。
 それでも我慢してじっと坐っていた。堪えがたいほど切ないものを胸に盛れて忍んでいた。その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。
 そのうちに頭が変になった。将棋盤も掠め取った香車も、歩も、飛車も、持ち駒も有って無いような、無くって有るように見えた。と云って詰み筋はちっとも現前しない。ただ好加減に坐っていたようである。ところへ忽然脇の時計がチーンと鳴り始めた。
 はっと思った。香車ですぐに王手をした。
「時間切れです」
 記録係が抑揚のない無機質な声で云った。




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