『狭義のゲイ(?)』から見るアイデンティティ政治の歪み

 LGBT(Q+)という語は広く知られるようになった。
 Gがゲイの頭文字であることも。

 では、ゲイとは何か?
 ──おかしな問いに感じるかも知れない。

そんなの『男性の同性愛者』に決まってるじゃないか。
トランスジェンダーよりは定義が容易いはずだ。

想定される反応/よく知られた定義

 筆者も上のように理解していた。男性の同性愛者は例外なく含まれるカテゴリーだと。
 主体および対象にトランス男性(FtM)を含める含めないの議論はあるにせよ、それを除けばこのシンプルな定義に異論があるとは考えていなかった(その点は反省である)。

 が、やはり異論は存在するもので。
 その主張によれば、『(男性の)同性愛者であるだけではゲイとは限らない』らしい。

「隠れホモ」はLGBTとは関係ない。LGBTとは、自分を「私はLGBTの◯◯だ」と言える人たちが獲得したカテゴリーなのです。「隠れホモ」は、そこに値しない(ということをエンカレッジの意味で言い続ける)。

北丸雄二@quitamarco 2015年8月27日 - twitter.com

 これだけでは分かりにくいので北丸氏の著書からも引用する。

彼らのホモセクシュアリティは、アイデンティティとしてではなく、その状況下での性愛的な欲動が同性に向かったという、その矢印の向きとしてのみのホモセクシュアリティだった──単なる客観的な形容なのです。

『愛と差別と友情とLGBTQ+』北丸雄二

 つまり、『ある男性の性愛が同性に向いても、それは単に同性愛ホモセクシュアリティというだけで、その同性愛をアイデンティティとしているかは別問題だ』と。
 このように北丸氏は、男性の同性愛者をゲイとゲイ以外に分ける

 筆者は北丸氏の定義を支持しない。本稿は上記を批判するものだ。
 定義自体は本来なら好きにすればいいものだが、これについては看過しがたい悪影響がある故である。

◆前提の確認

 アイデンティティ政治ポリティクスの考え方をあまりご存知でない方や、その考えに共感しない方(筆者はほとんど共感していない。後述)にとっては、北丸氏の定義はまず理解が難しいかも知れない。
 まずはそのような読者を想定して、前提を確認しておこう。

違い

  1. 同性愛者ホモセクシュアルであること

  2. 同性愛をアイデンティティとしていること

 1.2.の違いについて、字面からは『本人の自覚の問題で他人からは確かめようがない』と思われるかも知れない。
 しかし氏の定義は“『隠れホモ』はゲイではない”とするように、実質的に指し示すものは比較的容易に区別できる。両者の違いを分かりやすく誇張すれば──、

  1. ただ同性愛者であり、そのためにこうむってきたマイナスを、社会に請求するつもりのない

  2. 同性愛者であることに加え、そのために被ってきたマイナスを、社会に請求する

──こんな感じ。

(話の流れ的に触れていないだけで、同性愛者であることにプラスが無いなどとは思っていない。念の為)

 あるいはもっと短縮して、

  1. 市井のゲイ

  2. ゲイ活動家

の方が伝わり易いか。
 1.がデモなどの活動をすることもあるし、2.が全て活動家とも限らないので、典型的なイメージに過ぎないが。

アイデンティティ・ポリティクス

 下敷きになっているアイデンティティ・ポリティクスとは、『ある属性集団が社会から被ってきた害を、アファーマティブ・アクションなどの形で補償させることによって社会的不公正を是正していこう』とする姿勢だ。

 この観点で言うなら、なるほど『隠れホモはゲイではない』。賛同はしないが定義は明瞭だし、ゲイとゲイ以外を区分する態度にも理屈は通る──倫理的にどうかはさておき実利は理解できる。

今回のLGBT法案問題で「自分は差別なんか感じない」「日本は寛容な国柄」「差別禁止は米国の内政干渉」という幸せな人たちがなぜか必死に声を上げていて、逆に初めて「差別」や「敵」の存在があらわになった。

北丸雄二@quitamarco 2023年5月11日- twitter.com

 氏の定義するゲイとは、過去と現在を否定しその補填を社会に求める者に限られる。同性愛者でありながらこの請求をしない者は足を引っ張る抵抗勢力であり、何らかの成果を得た際にもおこぼれを喰むフリーライダーだ。
 ──多分そんな風に見えておられるのだろう。

 もちろんこれはゲイの──あえてこう書くが、ゲイの総意ではない。

◆この定義の問題点

1)規範化

 北丸氏のゲイ定義の問題点は、ここまでで既に1つ露わになっている。

 同性愛者に“ゲイ”を自称させないことだ。この定義は『ゲイと自称したければこの社会を許すな』と強いる。
 属性カテゴリを独占し、そして属性には規範が抱き合わせ。『女なら●●しろ』や『■■しないヤツは男じゃない』などと何ら変わらない。

2)無罪化

 もう1つの大問題がゲイの無罪化だ。
 同性愛者が犯罪を犯したら『そいつはゲイじゃない』と尻尾切りをしうる、そうした機能を備えた定義だということ。
(これまでプライドパレードなどの活動に積極だった人物でも、『ゲイを装っていたホモ』と言えてしまう)

 やり口が汚い。
 個人的な好みはさておき、これは単純に事実に反する

 北丸氏が何と言おうと、同性愛者の中からも犯罪者は出てくる。統計上の多寡はともかくゼロではありえない。
 それをゼロにしてしまえる定義はまやかしだ。まやかしを真に受けると『“ゲイ”は犯罪率がゼロ%なので、女性専用車両や女性スペースに入っても防犯・安全上の問題は発生しない』ということにもなってしまう。
 言うまでもなく安全上の問題は生じる。だからこんな定義は認められない。


◆前置き:アイデンティティ

 そもそも“アイデンティティとしての同性愛”と呼ぶものに何を期待しているのだろう。
 どうも『連帯して政治的運動に取り組むための紐帯ちゅうたい』として位置づけているように見受けられるが、だとしたら無理筋である。

 そんな個人的なもので連帯などできようものか。

参考例1

 我が事としてアイデンティティの位置づけを整理するため、一旦セクシャルマイノリティの話題から離れる。
 筆者は生来の障害者ではなく、成人してから病気により車椅子生活を余儀なくされた。

 その際の精神的負荷は確かに『アイデンティティの揺らぎ』と呼べる。それまで当たり前に出来たことが出来なくなるという経験は自尊心へのダメージを伴い、嫌でも自己評価を改めざるを得なかった。
 もうかなり年数を経ているので、現在の筆者は『障害者としてのアイデンティティ』を獲得したものと自認している。

 ──ただし。

 筆者のアイデンティティは、他の障害者/車椅子生活者のアイデンティティとは、当然に異なる。近しい部分もあればかけ離れた側面もあるだろう。
 健常者に比べて平均的に近しいということも特にないように思う。

 『日常生活で困ること』ならば車椅子生活者と共有できる点は多くある。何らかの政治活動で連帯もしうるだろう。
 が、筆者は自らの困りごとをアイデンティティにするつもりはない。それをアイデンティティや尊厳にせよと口出しされるのも御免蒙る。
 同性愛者がその性愛をアイデンティティの中心に据えるか否かも本人が決めることだ。

 筆者は障害者だが、障害者は筆者ではない。
 筆者は男性だが、男性は筆者ではない。
 筆者は日本人だが、日本人は筆者ではない。

 当ったり前のことだ。『他者と共有できるアイデンティティ』など矛盾している。一部が一時的に重なるだけだ。

 私は私しかいない。私は私以外にはなれない。
 障害を得て変化しても他人に成り代わったわけではなく、これが今の私というだけだ。
 何かの比喩や気取った詩的表現ではなく、文字通りそのまんまの意味で。

参考例2

 筆者は上で、アイデンティティ・ポリティクスに“ほとんど共感していない”と述べた。
 “まったく”でないのは、公民権運動以前のアメリカにおける黒人差別のようなケースを想定してのことだ。

 合衆国憲法に差別禁止と書かれていても、司法が一度は『分離すれども平等』にお墨付きを与えてしまった。
 背負わされるマイナスは黒人であるというだけで不可避だっただろう。

 このような状況においてなら、その属性に対して社会が補償を行うのは妥当と考えられる。
 では現代日本のセクシャルマイノリティは(あるいは障害者は)近しい状況に置かれているか?

 マイナスが無いとは言わない。
 しかしかなりの個人差がある。個人差と言っても本人に帰責されるものではなく、土地柄や人の縁に拠る差異が。

 仮に、古い価値観に染まりきった強権的な親族がいるとする。
 その人と同居しているか別居しているかで抑圧的な体験の度合いはかなり変わってくるだろう。

 同居していれば酷くつらい思いをしたかも知れない──が、現代社会はそれを公に認めるだろうか? 家庭ゆえに介入しづらい部分はあるにせよ、いざ警察や司法のマターとなれば『家族でも他人を支配してはいけません』と判断されるはずだ(※1)。
 よってこのマイナスを社会に背負わせる正当性は疑わしい。原理的にはその親族との関係変更によって解消を目指すべき(※2)、対人関係による抑圧だろう

※1:LGBT理解増進法などが無くても。
※2:ここでいう“解消”は話し合いや妥協に限らない。逃避なども取りうる選択のひとつである。

◆本論:アイデンティティ

 他人と異なる自己アイデンティティを受け入れて欲しい』との欲求は誰もが抱えるものだ。どんな属性の人であっても。
 この目的に適う手段であればできる限り応援しよう。

 しかしアイデンティティ・ポリティクスがその目的を叶えてくれるとは……筆者には考えにくい。

1)定義の排外性:分かりにくい

 アイデンティティ・ポリティクスに基づく政治活動を推進する上で、定義を先鋭化させることには一定の合理性がある。

LGBTとは、自分を「私はLGBTの◯◯だ」と言える人たちが獲得したカテゴリーなのです。

再掲

 しかしこのように内輪で定義されたカテゴライズは世間の理解と一致しない。
 誤解と不和を招くばかりで、むしろ理解うけいれを妨げるだろう。

2)目的との混乱:属性カテゴリではなく

 そもそも受け入れて欲しいのは“ゲイ”や“LGBT”といった属性カテゴリではないだろう。他のどのゲイとも異なる自分アイデン自身ティティのはずだ。

 仮に属性を受け入れよと求めているなら、筆者は『そんなことは不可能だろう』と答える。ゲイにも障害者にも色々な人がいて当たり前だからだ。仲良くなれる人もなれない人もいる。
(マイノリティ属性を持つだけで付き合いを拒絶するような人も居るが、そのような偏見・先入観を解きほぐすことは極めて難しい──北丸氏が“ゲイではないホモ”を“敵”と見なすように)

 ある男性が同性を愛する時と、別の男性がまた同性を愛する時、そのどちらも同性愛という意味では同じだし、世間からは似たような扱いを受けるかも知れない。
 しかし『この2人が抱いた同性愛は似たようなものだ』とは、筆者にはどうしても思えない。他人なんだから愛し方だって違って当たり前だろう。だからこの2人が共に同性愛をアイデンティティの中核に据えたとしても、獲得されるのは全く違ったものになる。
 結果、『ゲイ(という属性)を受け入れた人』が実在しても、この2人(のアイデンティティ)が受け入れられたわけではない。

3)目的の混乱:個として受容されたくば

 属性に左右されない個人として理解・受容されるようになる過程は人間関係の構築に他ならない。
 これを怠れば特にマイノリティ属性を持たない人(いわゆる“シスヘテロ”など)でも蔑まれ冷遇される可能性は高くなる。

 なんらかの法令が作られたとして、それによって自動的に人間関係が構築されるようなことは考えにくい。『ゲイという属性の定義』と違い『その属性を持つ個々人の実相』は記述できないからだ。もちろん条文にも載せられない。

 結局は真摯なコミュニケーションが必要になる。泥臭く面倒なコミュニケーションを経ずして、十人十色のアイデンティティが理解されることも受容されることもないわけで……大規模な政治活動を組織する上でのフックとしては甚だ非効率なものだ。
 ──“アイデンティティ”という語も何かしら独自の定義で用いている可能性はありそうだが。

◆まとめ

  • ゲイの定義を狭めることには複数の問題がある。

  • 同性愛を核とするアイデンティティ・ポリティクスにも、筆者は反対する。

以上

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