語句や名前に拘るべからず
筆者個人の言語感覚は、恐らくかなり保守的なものだ(たとえば“とんでもございません”と見聞きする度に違和感が湧くような)。
しかし社会問題に関することばには個人的な拘りを持ち込まない。持ち込んでも意味がない。
それらはほとんどの場合、ことばの問題ではないからだ。
もちろん意味が通じないなら困りものだが。
逆に言えば、意味さえ通じるならことばの問題はクリアしたも同然である。
◆事例:“中断”か“失敗”か
事例として、2月17日に打ち上げ予定だったJAXAの次世代主力ロケット「H3」の件を挙げよう。
アレは中断なのか失敗なのか?
そもそも中断/失敗とは何か?
…………どうでもいいでしょそんなこと。
1-1)変わらない
中断も失敗も似たようなものだ、などと述べるつもりはない。それらは違うものだ。
ただしこの2つはどちらも、表現であって事実ではない。
有名なルビンの壺という絵を、ことばではどう表すだろうか。
『向き合う2人の横顔』か、または『中央がくびれた器』か。この2例は全く違う表現だが、どちらを使おうがルビンの壺という絵が変容することはない。
同様に、2月17日に起こった出来事そのものはもう起こってしまった。何も変わりはしない。
(ことばが与える印象などについては次節で触れる)
この件を“失敗”と呼びたがる人は否定的な見解を持っておられるのだろう。この出来事が『悪い』とか『間違っている』とか言いたいはずだ。
その悪さこそが本質であり本題。ことばの重要度は相対的に低い。
その人達からすれば“中断”と呼ぶことも不適切かも知れないが、それはそんなに優先度が高いのだろうか。
もしも〈“中断”と呼ぶべきではないから“失敗”と呼ぶべき〉なんて見解であれば、それは筆者より厄介な言語オタクである。内心に留めるがよろしい。
なお、具体的な問題点を批判的に論じるならば『なにと比べて?』と自問すべきだ。
そうすることで問題の焦点が明らかになる。
完全な成功に比べダメだった:
それはそう。『打ち上げ成功よりも“中断”の方が良かった』なんて肯定派は恐らくいない。
しかし今回の顛末は、他のあらゆる失敗よりも安全・技術・資源など多くの面でマシだったのだ──これを中断と呼ぼうが失敗と呼ぼうが。
やらない方がマシだった:
こう考える方は、宇宙開発に価値を感じていないか他にもっと優先したい課題があるのだろう。
価値判断の問題、または予算振り分けの問題と考えられる。
いっそ大爆発して欲しかった:
社会性か倫理面に問題があると思われる。
無理やり3つ挙げてみたが、いずれもことばの問題ではない。故にどっちでもいい。
(『なにと比べて?』はダグラス・マレーの著書より)
1-2)煽らせない
ことばが強力な力を持っているのは事実だ。“中断”と“失敗”ではニュアンスが違う。抱く印象も別物になる。
さて、それは問題だろうか?
大真面目に訊ねてしまうが、宇宙開発の是非を〈ことばの印象に左右させるのか〉?
もちろんJAXAの方はイメージも気にするだろう。多くの人から関心や応援を得た方がやりやすい。
民間企業も政権与党も、『どんなイメージを持たれようが構わない』とは中々言いにくいだろう。
それは分かる、分かるが……それは組織側の懸念事項だ。
ことを病院に置き換えてみて欲しい。病院だって記者会見などをする時はことばの細かい部分まで色々と気を回すだろう。
しかし患者からすれば“そんなこと”だ。ことばなんてものは。
四肢を損傷して離断手術を検討している時、『その手足が壊死してるか/してないか』『壊死とは何か』『壊死なんて恐ろしげなことばで良くない』などと考える患者は居な──いや居るには居るが──冷静な観点からは『現実逃避してないでちゃんと考えろ』という話。
同じことだ。
JAXAや宇宙開発を批判したいならそれは好きにすれば良い。但しそこにはことばの印象などよりも重大な問題意識が(趣味的な言語愛でないならば)あるはずで、そこを問わねば批判の意味がない。
字面に引っ張られた批判を展開する人も、ちらほらと見られるが……その人たちを『某社が“失敗”ということばを使ったために印象に流された被害者』と考えることは、筆者には難しい。自分の頭で考えないなら、全てのマスコミが“中断”を使っていても大差はなかろう。
1-3)進まない
冒頭に例示した『アレは中断なのか失敗なのか?』とか『中断/失敗とは何か?』といった問いは、コンセンサスに辿り着くことが難しい。
筆者とて、誰かが『とんでもございません』と言うだけなら『言いたいことは通じる』とスルーできるけれども、自分でもその表現を使えと強要されたらかなり頑強に反対するだろう。
日常的な語用はかなりの部分を感覚で行っている。理屈ではない。
だから“失敗”派を“中断”派に転ばせるにせよその逆にせよ、時間と労力は大きく割かれるだろう。
──しかも、そのコストを支払ったとしても。
それによって宇宙開発は1mmたりとも進まないのである。
無駄としか言いようがない。
やるなら個人の趣味に留めておくべき。
◆どうでもよくない問題?
上で使った“どうでもいい”はロケットの件についての言及だ。
他の問題まで普遍的にどうでもいいとは言わない。
──ただしやはり、ほとんどはことばの問題ではない。
2-1)差別に関する語
人種/性/病気などによる差別に苦しむ人に、『どんなことばをかけても良い』わけはない。慎重にことばを選ぶ必要はあるだろう。
ただしその気遣いの効果は、最大限に上手くいっても『傷を増やさずに済む』だけでしかない。
差別自体をどうにか解消・軽減したいなら、ことばの問題というフレーミングはあまりにも無力だ。
(“差別用語”とされるものを全て禁じていって、その禁則が仮にきちんと守られるとしても、禁止されていない語が悪意と共に使われるようになるだけだ)
2-2)一般的すぎる語
ある人は、『“女性”という言葉を聞くだけでその差別性に吐き気と目眩がする』と主張した。
それが嘘だとは言うまい。
あえて嫌がる言葉をぶつけることもしない。
が、その人のために世の中全体から消し去るには、その語はあまりにも一般的だ。
ことばの問題として捉える限り、この苦しみから逃れることは難しいだろう。
そのような状態になってしまったことについて当人の責任があるとしても無いとしても、恐らく精神科医療の領分になるものと思われる。
(筆者にとって病院とは『自分ではどうしようもない時に助けを求める候補のひとつ』でしかないので、他にどうにかできるなら病院である必要はないが)
2-3)誤解を招く語
ロケットの例では、ある出来事を表すことばが複数挙げられた。
また別の例では、ひとつのことばがまるで異なる意味に使われたりもする。
このように概観すると、ことばでのコミュニケーションに絶望感を抱くかも知れない。
──が、どうか安心してほしい。
このようなことばの散逸は、人類の歴史が刻まれ始めた当初から絶えたことのない常態だ。
バベルの塔は砕かれ、コミュニケーションはコストを伴う。人類はずっとその環境を生きてきた。
だからこそ、誰かがことばを誤って使ったり受け止めたりしても、それを重大に捉えるべきではない。
誤解は解きうる。
完璧なことばなど誰も持っていない。
ことばに関して『一切の間違いをするな』という要求は『他人とコミュニケーションをとるな』という禁止に近い。
『厳密で誰も傷つけない言葉だけを使え』と求めるべきではない。
ここで言う“べきではない”は単純に効率の観点から。
この要求を満たそうとすれば、極論すべての個人に専用の言語が必要になってしまう。
ただでさえ高いコミュニケーションコストが無限に高まるだろう。バベルの残骸をさらに磨り潰して砂にするような行いだ。
以上を踏まえ、改めて。
ことばや名前にこだわるべからず。
通じりゃ良いんですよ通じりゃ。
以上
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