障害のモデル化cf.人権モデル&CRPD

 社会モデルなどの用語は前回の障害のモデル化feat.社会モデルを参照されたし。


 本稿では、2014年に書かれた『A human rights model of disability(障害の人権モデル)』を参照しつつ、人権モデルという概念とそれに基づくCRPD(障害者権利条約)を批判的に紹介する。

 国連の障害者権利委員長を務めたTheresia Degener氏によると、人権モデルとは “障害の社会モデルが進歩したもの”。ただしそれは良く理解されていないと言う。“ほとんどの締約国が、CRPDが採⽤している人権モデルの理解に問題を抱えている” のだと。

 CRPDは2006年末に国連総会で採択され2008年から発効した(日本は2007年に署名)。
 ――にも関わらず、Degener氏は2014年のテキストで『理解されていない』と嘆いているのだ。
 故にこの文書は、読者に人権モデルを理解させるための教科書的な性質を持っている。やや古いが、基礎理解の参考には適切だろう。

 ただし、冒頭記事でも述べた通り筆者は人権モデルを肯定的に捉えていない。中立性には難がある旨はご承知頂きたい。
 なお、引用は原則として原本からするべきではあるが、いちいち英和両方を示すと冗長なため、いずれも拙訳をあてている。

(全文を日本語で読みたい方は障害保健福祉研究情報システムが公開している仮訳版(訳:佐藤久夫)が手軽だが、所々で専門用語の対訳が怪しいことに注意)


◆前置き:人権モデル以前

 まず、人権モデル以前の医療モデルと社会モデルについて、Degener氏の論評を紹介する。

(1/2)医療モデル批判

 医療モデルの問題について、前の記事では『治せないものは治せない』点のみを指摘したが、今回は切り口を変える。
 というのも、次のような記述があるからだ。

CRPD の交渉中には、〔…〕関係者の意⾒はたびたび割れたが、障害の医療モデルが明らかに正しい道筋でないことについては全体合意があった。 

A human rights model of disability/Theresia Degener

 本稿は障害学の専門家に向けたものではなく、むしろこの引用部に『なんで?』と思うような読者を想定している。正しくないとの意見が一致するほど大きな、医療モデルの問題点を確認しておきたい。

(障害学の専門家からすれば当たり前だからなのか、本文中でははっきりした説明が無いが)
 一言にまとめれば『過ちからの教訓』である。

○隔離・分断の問題
 統合失調症・双極性障害・痴呆症等の歴史において――あるいは現在進行形でも――看過しがたい『治療』が行われてきた。身体的拘束を含む監禁、保護とは名ばかりのプライバシー侵害、一般社会からの隔離などだ。

 医療モデルは病的な状態インペアメントを治すことで社会復帰を目指す。結果、治療のためにあるはずの入院施設が収容施設になってしまいがちだ。その目的からして、治らない限り出せないのだから
 『ただ閉じ込めなければそれで解決』とは決して言えないが――それでも、隔離と収容の問題は明らかだった。

  • 人権侵害にあたること

    • (虐待などが発覚しにくいことも問題だが、そういった犯罪行為が無くても自由権や社会権に踏み入っている)

  • 社会からの隔離は、

    • 世間からの異端視を強めること

    • 患者の病態を悪化させやすいこと

 病状が軽ければ社会生活は送れる。周りからは少々変わった人――または困った人――と思われるかも知れないが、慣れれば慣れてしまえるものだ。当人も自信が持てるだろう。
 しかし隔離していると社会の側は不慣れからの隔意で異物を拒んでしまうし、当人も孤独と無力感を深める。
 誰にとっても不幸なことだ。

転向コンバージョン治療セラピー
 かつて、同性愛は精神病の一種と考えられていた。その認識に基づいて医療モデルを適用した結果……甚大な侵害が、『治療』として行われた事実がある。
 おぞましく、猛省すべき歴史だ。

同性愛は治療すべき異常である。異性愛こそが正常なはずだ。
同性の魅力を忘れ、異性の魅力に気付きなさい。そうしない限りは病人だから、治療を受け続けてもらう。

転向治療の教義ドグマ

 同性愛者に異性愛を植え付けようとした。あるいは同性愛を捨てさせようとした。
 酷い話なのは間違いない。しかもこれはモデルの問題である

 ある患者が『自分は同性愛者で、そのために同性の友人から距離を置かれたり、男女問わずからかわれたりする』と悩んで病院にかかったとしよう。
 この患者の悩みディスアビリティは周囲とのコミュニケーションにある。しかし医療モデルはその原因を患者自身に求めてしまう個人のインペア特性メントを変えることで周囲に合わせようとするのだ――つまり転向療法という形で。

 以上のような反省から、国連の障害者人権会議は医療モデルを “正しくない道筋” と断じたのだろう。

(2/2)社会モデル批判

 社会モデルと人権モデルの違いを説明するのは容易ではない。Degener氏も “障害の社会モデルを捨てることではなく、さらに発展させたもの” と書いている通り、重複する部分もそれなりにあるからだ。
 以下、両者の違いに注目して引用する。

○理念の欠如
 
社会モデルは道徳的原則――良いとか悪いとか――を齎さない。

社会モデルは、障害者政策の基礎として道徳的原則や価値観を提供しようとはしない。対して CRPD はまさにそれを追求している。 

A human rights model of disability/Theresia Degener

 この指摘は正しい。不便が解消されるかされないか、どうしたら解消できるかが社会モデルの主題なので。

○唯物的態度による体験の否定
 社会モデルは機能不全と障害を二分し、主に物理的な側面から障害にアプローチする。
 このことが、障害者の体験の否定だと批判された。

確かに、環境の障壁や社会的態度は私たちの障害経験の重要な部分だ――実際に私たちの能⼒を奪っている――しかし、それが全てだと示唆すること〔≒社会モデル〕は⾝体的または知的な制限、病気、死の恐怖についての個⼈的経験を否定することだ。

‘Pride Against Prejudice’ (1991)/J. Morris

 経験の否定とはやや通じにくい言い回しに感じたので、これを2つの解釈に分けて説明しよう。

  1. 社会モデルの弱点――物理的でない障害に有効な策を示せていないこと――を指摘している。

  2. 障害と機能不全とをはっきりと分け、障害の方――社会との適合マッチング度――にのみ注目することは、機能不全を軽んじることだと批判している。

 次の箇所には1.がよく表されている。

〔社会モデルに沿った環境整備を進める内に〕私たちは誤った考え方に流されてしまったことがある。「典型的な」障害者は、健康で、病弱でなく、物理的にアクセスできる環境のみを必要とする⾞椅⼦の若い男性であるといった考え⽅だ。

‘Impairment and disability’ (2001)/J. Morris

 社会モデルが齎す変革によって、最も大きな恩恵を受ける集団は “健康で、病弱でなく、物理的にアクセスできる環境のみを必要とする⾞椅⼦の若い男性” だろう。そしてそのような人は “典型的” でもなんでもない。
 『社会モデルは障害者の内のほんの一部しか救わない』。これが1.の意味するところだ。

 では、“⾞椅⼦の若い男性” には社会モデルさえあれば他の福祉は要らないのだろうか。身体・精神・経済面などの負荷は健常者と変わらない?――そんなわけがない。
 2.が指しているのは『社会モデルは(救われる)障害者の苦しみを一部しか癒やさない』ということ。

 1.2.をまとめると、社会モデルでは足りていない

アイデンティティ政治の排除

社会モデルは、アイデンティティ政治の重要性を無視することについても批判されてきた。アイデンティティ政治は、〈個人間の違いに価値を置き、それを尊重し、社会では低く見られる特徴と共に肯定的なアイデンティティを持てるようにする政治〉と定義できる。

A human rights model of disability/Theresia Degener

 『社会モデルが上で定義されたような要素を重視していない』という指摘自体は正しい。


◆私見:人権モデルの批判的検討

 以降は筆者の私見であってDegener氏の意見ではない旨、ご了承されたい。

防壁としての必要性

 最初はポジティブな評価から。

 人権モデルが強く主張するのは、社会モデルによっても障害ディスアビリティを解消できないような個人について、『“症状が重いから仕方がない”などの言い訳で人権を制限するのは許さない』姿勢である。

⼈権は無条件の権利だと言える。制限されることがありえないという意味ではなく、⼈権は特定の健康状態や機能の状態を必要としないという意味で。したがって、⼈権は機能不全の不在を要件としない。

同上

 悲しいことに人権が制限されてしまう事態はある。戦争や災害、事故などもそうだ。
 が、『機能不全インペアメントがある人には(制限される前から)人権は無い』などということはありえない。少なくとも人権モデルは強く否定する。

障害の⼈権モデルは、機能不全が⼈権の幅を狭めうるという推定に抗う。

同上

 ……文章だけを読むと、空想的理想論にも見える。『現実的には人権を妨げるような機能不全もあるのでは』と問いたくもなる。“社会正義” を謳う人たちがしばしば実現性を軽く見るせいだ。
 ただ、これを書いているDegener氏には生まれつき両腕が無い。こういうメタな読み方はあまりしたくないが、少なくともこの一文を『お花畑な理想論者の夢』などと切って捨てるのは短慮というものだ。

 歴史から学べる事実として、えげつない人権侵害はいとも容易く行われてきた。もし仮に、『両腕の無い人達は人権が制限されても仕方がない』とか『それは人権侵害に当たらない』『仕方がない』などといった態度を少しでも許そうものなら、あっという間に奪われかねないことを、私達は記録として知っている。
 だから、譲れない一線を強く打ち出すことは必要だ――多少理想論じみた響きになるとしても。生半な覚悟で書かれたものではないと考える。

社会モデルは確かに足りていない

 前の章で触れた、次のような批判には筆者も同意する。

  • 社会モデルは障害者の内のほんの一部しか救わない

  • 社会モデルは(救われる)障害者の苦しみを一部しか癒やさない

 特に精神障害に対して社会モデルができることは少ない。

精神障害者のディスアビリティを解消するのに、どんな対応が適切なのかはそれほど〔引用注:身体的な障害に比べ〕明確ではありません。自閉を続ける精神障害者は、ヘルパーが付き添うことで外出できるようになるのでしょうか。ヘルパーの存在そのものが恐怖をつくりだし、さらなる自閉へと追い込むかもしれません。そもそも彼女/彼らは外出を望んでいるのでしょうか。もし望んでいるとして、それは妄想や強迫に駆られたからかもしれません。妄想や強迫に基因する外出を手助けすることが、ディスアビリティの解消につながるのでしょうか。疑問は延々と続きます。精神障害は医学モデルと社会モデルの間に置き去りにされてきたといえるのではないでしょうか。

精神障害者の生きづらさとはなにか? - ritsumei-arsvi.org

 医療モデルとも社会モデルとも違う何かが求められている。それは確かだ。

 ――かといって、筆者は人権モデルを支持しないが。

アイデンティティ政治の諸問題

 以下は人権モデルの問題というよりアイデンティティ政治の問題といった方が正確だが、後者の包括的な批判はそれだけで数万字になるので、ここでは人権モデルにフォーカスして論じる。
(詳しくはダグラス・マレーに丸投げ)

○コミュニティの不在
 アイデンティティ政治には、『主語が大きくなりやすい』という問題がある。
 人種や障害などのアイデンティティに正当性の基盤を求めるので、自然とその要求は集団全体のものという色合いを帯びてしまう。

 言うまでもなく、障害者も一枚岩ではない。視覚障害者と車椅子生活者では全く困りごとが違うし、似たような機能不全であっても先天的か後天的かで障害の感じ方は大きく異なる。それをグループに分けていけば、最終的には個人レベルにまで細分化されるだろう。
 しかし障害者と健常者の間で利益調整をしようと思ったら、ある程度はまとまったグループで『障害者の利益』を共有しておかないと話が始まらない。各自にばらばらな要求をぶつけるだけになってしまう。

 この問題は、次の2点により解消できるかも知れない。

  1. 集団がコミュニティを成す

    • 同じ障害者でも、望んでいることは個々に異なる。それは話して見なければ分からない

    • 自身の意見が集団の中で中道なのか極端なのか。これも他者の声を聞いて初めて測れる(多くの人は自分を中道で理性的と見なしがち)。

    • 日常的・定例的に個人間の意見交換をする場があることが望ましい。

  2. 政治的メッセージの発信窓口を絞る

    • 個々人の政治的意見は、まず・・上のような場で集団内部へ向けてみる。

    • 外部へのメッセージは集団の名義で発信するなどと定め、世間に求めるものを明らかにする。

    • 過激な個人によって集団全体が過激だと思われることを防ぐ。

 ネットでも書籍でも、様々なマイノリティ当事者の『生の声』を見かけるだろう。しかしそれは同じ集団の内部から『そんなことを考えるのはあなただけだ』と批判されるものかも知れない。
 集団外部からはどちらが主流なのかどちらも極端なのか見分けがつかない。そればかりか、集団内部からさえ正しく判断されるとは限らない。『生の声』も『あなただけだ』も個人の経験に過ぎないおそれがある――1.の条件を満たしていれば比較的マシになりそうだが。

 実際のところ、上のような条件はまるで満たされていない。そんなコミュニティに属している障害者ばかりではないし、誰もが個別にSNS等で持論を展開する。
 ……そもそも、〈自分の政治的スタンスを話し、他者のそれを聞く機会〉を定例的に持てている日本人など少数派ではないか? 政治に踏み込まないごく私的な内容ですら、気軽に話せるコミュニティに繋がれない人が少なくないのだから。

 そのような場を背景にしない孤絶した主張は、それが認められた場合に何が起こるのか発信者も正しく想定できていない――他者からの反応リアクションを受け取った経験が乏しい――故に、集団間の政治的メッセージとして不適切だ。

※補足1※
 Twitter等で個別に発信をするマイノリティや『一人一派』を掲げるフェミニストに、対集団としてできることは何も無い。それが集団としての要望なのか分からないからだ。
 ただしそのことは、個人としての発信を妨げるものではないし、個人として尊重されない理由にもならない

※補足2※
 コミュニティを介さないバラバラな主張がなされることは、言論の自由としては実に結構なことである。ただ、それに任せるだけで政治的合意が結ばれることは期待しにくい。筆者が想定しているのは統制や検閲ではなく交通整理だ(それが暴走して弾圧になる危険性は認める)。

○“政治” してる?
 筆者にとって政治とは、不満からスタートして納得をゴールとするプロセスである。
 ある集団が不満を抱えている時、取り巻く環境やルールを変えることは有力な解決策候補だ。しかしそればかりではない。特に何かを変えずとも話し合いや情報開示だけで納得かいけつしたり、逆にちょっとした申し合わせや頭出しが無かったばかりに穏当な内容に不満が生じたりもする。

 よって、どのような施策も、それによって納得が得られないのなら政治的には下策だと考える。
 そういう意味では、『人権』という錦の御旗と共に『国連』という上部組織によって敷かれる人権モデルは実によろしくない。健常者の納得など気にしていない点が。
 政治的な妥結の多くが、ある要求の見返りに別の部分で譲るような利益調整の形を取るのは、その方が納得されやすいからだろう。一方だけが得をするような変更は受け入れがたく、受け入れられないということは新たな問題ふまんを生み出しているということだ。

人権モデルの他責性

 Degener氏は2002年にこんなことを書いている。

人権モデルでは、ある人に影響を及ぼすあらゆる決定の中心に当事者個人を置く。そして何より重要なのは、主な “問題” を個人の外・社会の中に置くことだ。

‘Human rights and disability’(2002)/G. Quinn and T. Degener

 また、社会モデルも同様(障害を個人の外に置く)とDegener氏は書いているが……それは違うだろう。

“障害”ディスアビリティの所在
 社会モデルは、個人と社会の特性がぶつかるところに障害を置く。車椅子生活者にとって快適な空間でも、二足歩行者にとっては使いづらい場合があるように。

 社会の特性だけを見て、それが障害を生む構造なのかそうでないのかなど評価できるわけがない。そこに暮らす個人の特性によって、バリアフリーでもバリアフルでもありうる。
 どんなに快適で先進的な国でも、その国の言葉を全く分からない人は障害を感じるに違いない。

 社会の特性に合わせて個人の特性を捻じ曲げなければならないという意味ではない。そんな義務は無い。
 ただ、個人の特性をまげることで――あるいは妥協や努力によって――障害を乗り越えることが、出来るか出来ないかでいったら、可能な場合は多々あるのだ。

言葉が通じない? 勉強すれば?

言葉に障害を感じる人への一般解

 外国に母語を普及させる(社会を変える)のとどちらが楽かといえば明白だろう。

○個人と社会、どちらが変わる?
 人権モデルの主張が、『個人が変わる義務などない』だけなら異論はない。転向コンバージョン治療セラピーへの反省を踏まえればそんな義務は拒んで当然と考える。
 しかし実際は『義務の否定』に留まらない

障害は社会的構築だという前提に基づくだけでなく、機能不全は人間の多様性・尊厳の一部だと評価するのがCRPDだ。この点で、人権モデルは社会モデルの上を行くと考える。

A human rights model of disability/Theresia Degener

 “人間の尊厳dignity”! 次節でも述べるが、『変えたければ変えて良いもの』という扱いではない。即ち社会(だけ)に変われと求めている。
 この理念モデルを内面化した障害者はこんな主張に流れるだろう。

私は悪くない。変わる必要もない。
私に変われと強いるのは人権と尊厳の侵害である。
障害があるのは全面的に社会が悪い。社会が変わることでしか解決しない。

極論

 このような態度は、社会に対して非融和的――あるいは敵対的――であるばかりか、障害者の自助努力を阻みかねない。

 足や腰に機能不全を抱え、運動機能が低下した障害者がいるとしよう。常に動くのが億劫な毎日では身体はなまる一方だ。地味なトレーニングを続けなければますます身体機能は落ちていくが……大抵は苦痛を伴う。身体能力を向上させるどころか、維持するだけでさえ
 そんな障害者に『変わるべきは社会の方だ』と囁くのは逃避を促すのに近い。その人が寝たきりになって病態が悪化しても国連は面倒を見てくれないだろうに。

 障害者だからといって自責する必要はない。
 が、障害者を含めて誰しも、他責に逃げても埒が明かない。自分の身体と自分の人生なのだから当たり前だ。

治療や予防への排撃と同調圧

 上で引用した、『機能不全は尊厳の一部』論にはもうひとつ問題がある。
 『治せるようになったら?』という話だ。

 上の記事は単なる例示なので、この新技術(上手くいけば脳機能に由来する視覚機能不全や運動機能不全を改善するという)の実現性や安全性は脇に置く。
 ただ一般論として、〈今は治せない機能不全が10年後ならどうにかできる可能性〉は常に存在している。ありえないなんてことはありえない。

 世界初のヒト心臓移植が行われた1967年、それ以前と以後では〈治せない機能不全〉のラインが大幅に変わったように。他の様々な、エポックメイキングな技術革新のように。
 今では当たり前に治せるような疾病も、かつては治しようのない機能不全だった。ならば『尊厳』などと持ち上げなくても、現代人が盲腸(虫垂)を取るノリで治してしまっても良いのではないか?

(俗に言う “盲腸” は、正確には虫垂という器官の炎症であり、現代人の生活にはほぼ必要の無い臓器なこともあって気軽に切除されている。内視鏡手術なら日帰りも可能だとか)

 Degener氏が自身の機能不全をどう捉えるかは自由だが、筆者にとっての機能不全は単に邪魔な特性なので、捨てられるなら捨てるだろう。
 個人の意思こそ尊厳のはずだ。捨てたい変わりたいという意思であっても。

 『治したい人は治せば良いし、そのままで居たい人はそうすれば良い』。筆者はそう考えるが、人権モデルは治すことにさえ良い顔をしない
 そのことは、CRPDの予防への態度から類推できる。

○機能不全予防への(過剰な)反省
 『(1/2)医療モデル批判』では挙げなかったが、予防について次のように述べている。

例えば交通安全キャンペーンで、マヒの人の写真に『不自由な余生は死ぬよりつらい』なんてコピーがついていたり、ポリオワクチンの接種を促すスローガンが『経口ワクチンは甘い、ポリオはむごい』だったり。障害者はケガレのように貶められている。〔…〕こういった例で示されたのは、『障害のある生に生きる価値なし』とのメッセージだ。

A human rights model of disability/Theresia Degener

 感情としては分かる。交通事故で障害を負った人や既にポリオに苦しんでいた人からすれば、そんなキャンペーンに黙っていられなかったのも無理はない。

 機能不全を治せるようになることで、同じような蔑視が広まることも……充分ありえると考える。
 『治したい人は治せば良い』となったら、そのままで居ることが許されないと感じる人は出るだろう。自らの尊厳として機能不全と共に生きることを選んでも、周りからは怠慢や甘えにも見えかねないのだから。
 それは確かに『個人が変わる義務』に近い。少なくとも心理的圧力は働くだろう。

 そうならないように、CRPDの障害政策は『機能不全の予防』というトピックに触れていない。国連のそれまでの計画や規則(1982 年の障害者に関する世界W⾏動P計画A、1993 年の機会均等St化基R準規E則)では定められていたのに、予防の記述を削った●●●のだ

 繰り返すが、感情としては分かる。
 その上で、『予防を推進しない方がおかしい』と主張する。

○反省すべき点と妥協すべき点
 ポリオの件が、既に発症していた人にとって受け入れ難かったのは間違いない。

 ――では、健康な人に予防をするなと? あるいは発症初期の患者にケニー療法を勧めるなと?
 それこそ同調圧力ではないか。しかもこの圧力には際限がない。極端な話、『早寝早起きして元気な日々を』だろうと『緑黄色野菜で健康に』だろうと病人は傷付きうるのだ。『私が不摂生なせいで病気になったと言うのか!』といった具合に(※1)。

(ケニー療法:麻痺性ポリオの治療に用いられる理学療法の一種。神経細胞のダメージを抑え筋萎縮の程度も軽減する)
(※1:美容整形の広告によって不美人と自認している人が傷つくとか、男性向け泌尿器科の広告で包茎の男性が傷つくとか、そんなありふれた事例と大差ない。障害者だけ特別扱いする理由があろうか)

 言うまでもなく、意図的に人を害することも傷つく人を嗤ったり蔑んだりすることも避けるべきだ。誰に対しても。
 しかし、他人が気遣えるのはそこまでだ。

 何らかの公共表現から、あるいは自分よりもずっと尊いと感じられる誰かの生き様から、『私の生に価値なんて無い』とのメッセージを読み取ってしまい苦しんでいる人に、他人から差し伸べられるたすけなど、無い(※2)。人に支えられることはあるにせよ、最終的には自身でどうにかする(※3)しかない。
 冷たくしているわけではなく、事実として助けようが無いという話だ。その人が健常者だろうと障害者だろうと

(※2:洗脳に近い形での信仰などは作用するかも知れないが、助けとは呼びたくないので除外する)
(※3:選択肢は人生に価値を見出すことだけではない。価値なき生を堂々と生きるも、世間の隅で目立たぬよう生きるも、どうであれ納得できる形)

 スポーツやアウトドアを好む人は、身体障害者になりたくないと思ったり、事故などで肢体不自由を抱えた時に(一時的な)絶望感を覚えたりするだろう。
 それは健康と幸福への志向であって、責められるような心理ではないはずだ。予防医療だって排除されるべきではない。

 筆者の主張を整理しておく。

  • 『障害者は何を言われても我慢しろ』ではない。

    • 事実誤認には抗議して訂正を促す。

    • 実害(就職差別なども含む)を被っているならやはり対応する。

  • 上のどちらにも該当しない偏見まで全て排除するなど――周囲からのイメージまで統制しきるなど、誰にも不可能だ

  • 差別してくるヤツが●ソSxxk不愉快な偏見をぶつけてくる輩とはさっさと距離を取って気の合う友人を探すべき。時間がもったいない。

モデル間の棲み分け

 最後に、各モデルの関係について。

 そもそも人権モデルは、医療モデルや社会モデルと横並びに置けるような内容ではない。
 医療モデルと社会モデルはどちらも〈障害とは何か●●〉を捉えた定義モデルであり軽減へのアプローチなのに対し、人権モデルは〈障害はどう扱われるべきか●●●〉を定めた理念モデルであり強制するルールだ。内容が違うのではなくレイヤーが違う。
 CRPDがどんなに優れた人権モデルだろうと、医療モデルや社会モデルが不要になることはない。

  • 医師が患者を治すために、都市デザインを変えはしない。医療モデルでアプローチするだろう。

    • 隔離・分断についてはスキームの問題――つまりモデルを改める理由にはなる。が、治療や予防まで攻撃する理由にはならない。

    • 転向治療は否応なく強要されたために人権侵害だったが、それを希望する人だけが受けるならば残る問題は手法メソッドの質(有効性や安全性)くらいだろう。

  • 建築家やインテリアデザイナーがユニバーサルデザインを考える時、医療ちりょうを考える必要はない。餅は餅屋だ。

  • 国会や法廷は、特定の患者や建物にのみ適用される限定的な話を詰めるべき場ではない。

 それぞれの場面でアプローチを変えるのは当たり前に思えるのだが……どうも人権モデルは『全部入り』を目指しているようだ。

○欲張りすぎて無理では?
 そのターゲットは障害の原因にまで及ぶ。統計的に『貧困は機能不全を招き、機能不全は貧困を招く』という傾向を以て、貧困の問題にまで言及する。国際協力に関してまでも。
 ――機能不全の予防については削ったくせに

CRPD第32条は国際協力が障害者に開かれていること、あらゆる開発計画で障害が主流に位置づけられること〔…〕を求めている。CRPD第11条は自然災害や人道的非常事態において国家が障害者を守るために適切なすべての措置〔注〕を行うことを求めている。

引用注:"A human rights model〜" では "守るための適切な措置" とあり、"すべての" にあたる表現は無い。しかしCRPD Art.11にあるのは “障害者の保護と安全を確保するために必要なあらゆる措置” なことを踏まえ、上のような形を取った。

"A human rights model〜" ならびに CRPD Art.11

 社会正義を標榜する論にしばしば見られる特徴として、『例外を認めず全ての一括解決を目指す』傾向がある。
 良く言えば理想が高い。"all" とか簡単に言っちゃう。
 しかし、『守れない約束はしない』つもりで32条11条を評価するなら、こんな内容には誰も署名できまい。

 災害などの非常時、“障害者の保護と安全を確保するために必要なあらゆる措置” を100とすれば、健常者に対するそれはもっと低い程度で充足するだろう。仮に70とすれば、『障害者を含む全員への保護措置』が進捗度70〜100の間は “障害者差別” だとでもいうのだろうか。そんなことを言われてもどうしようもないが、進捗度100未満ならば “あらゆる措置” には満たないのだから、11条には抵触してしまう。
 もしくは、『健常者を除いた集団への保護措置』だけ先行させろとでも? それなら健常者も保護されないのだから差別にはならないかも知れないが……誰も得をしない。

 結果的に障害者の優先順位が下がる対応には一定の不可避性と合理性がある。医療的トリアージのような『全員は救えない場合のやむを得ない判断』としてであれば、筆者は支持するだろう――というか他にどうしようも無いわけだが。

 もしくは発生前の備えまで含めるとしたら、障害者の自由権と衝突する。保護と安全を確保しやすい地域に暮らしてなるべく出ないよう要請しなければ、Art.11の達成は不可能だからだ。

 以上のように達成困難な条文は、むしろ実態を隠蔽させるインセンティブになりかねず――実質的に達成するよりも達成していると見せる方が現実的だ――『事実』の価値を貶める点で問題である。
(そういった欺瞞を生む『社会正義』の問題は長くなるので再度丸投げ)

◆まとめ

○内容について
 筆者にとって障害者福祉の理想形は『健常者と同じ社会のメンバーになること』で、言い換えれば『特別扱いを受けないこと』だ。
 対して人権モデルは機能不全を『尊重』させる。特別扱いがあって然るべきだと説く。
 主にこの点で同意できない。

○やり方について
 医療モデルにも社会モデルにも問題はある。
 が、人権モデルはその穴を塞ごうとするのではなく、全てを新しいモデルに一本化しようとする。
 そのモデルが上手くいくかどうか、誰にも確かなことは言えない。にも関わらずCRPDは旧来のモデルを否定し、上書きし、署名しなければ “障害者福祉の後進国” と汚名を着せる。
 国連の条約でさえなければ『スモールスタートで』とか『既存の資産も無駄にせず』とか『エビデンス不足』とか言われそうなものだ。

以上

Twitterだと書ききれないことを書く