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いじめについて(その2)

いじめについては昨日、長々と語りました。言い残したこともそう多くはないです。補足代わりに最近、世間で話題になったニュースがあるので、それについて触れます。

いじめにより不登校になった比率

2024年の3月25日、文部科学省がある団体に委託した調査の結果が公表されて、多くの新聞社がそれについて似通った記事を書きました。調査は現在増えている不登校の要因を調べたものですが、記事になったのは、要因というより要因分析のズレについてでした。調査は児童生徒(および保護者)と教員それぞれを対象としたものですが、児童生徒・保護者サイドと教員サイドとで、要因についての認識がズレているというのです。

具体的には、「いじめにより不登校になった」と回答する児童生徒・保護者はそれなりに多くて26%ほどだったのですが、同様の回答をする教員はほとんどいなくて4%ほどだったということです。おいおい数倍の開きがあったぞ、という主張で紙面に出ています。*

ああ、だからこうなるんだって、と嘆息しました。前の記事を一読していただければ、言いたいことはわかりますよね。これらの記事は「教員はいじめを過小評価している、なぜならこれほどいじめが原因で不登校になったと本人が言っているのに、教員はそれを理解していないのだ」という主張が背後に見え隠れしています。ところが、この主張は間違っている。

私はこのようないじめの認識のズレについて、すごく単純な原因があると思っています。繰り返しになりますが、人間は合理的な生き物、すなわち自分が得をする立場に立ちたがる生き物です。そして、そのことがズレを生んでいます。

人間関係上のトラブルが発生した際、「私はいじめられたんだ」といった主張は自分を有利な立場に置くことになるから、非常にしやすいんですね。その逆で、「いじめたのだ」と認めることは自分を不利な立場に置くことになるため、非常にしにくい。今回の調査結果のズレは、この立場の差が生んだものだと考えています。

人間関係トラブルが原因で不登校になった場合、それをいじめだと主張することへの児童生徒側の誘引があり、それにより数倍のズレが生じたのだということです。けっして学校がいじめを隠蔽しているわけでも、教員がいじめを軽視しているわけでもない。メディアのレッテル貼りに乗せられちゃダメです。

主張から実態を把握するのは無理

前回述べたのは、いじめ問題は、双方が「いじめられた」と主張してぶつかるケースが多いのだということでした。それは本来、我々、人間のもつ合理性からくるものであって、起こるべくして起こっていること。そのため、こうした調査に関していえば、いじめについて被害者側の主張をもとに実態を正しく把握できると考えているなら、いささか甘い。むしろそこに耳を傾けすぎると、被害者だらけでわけがわからなくなってしまい、現場が混乱するだけ。本当に困っている人たちが救われなくなってしまう。したがって、いっそのこと耳を傾けすぎない方がいいのだと思っています。

この発言はかなり危ういものです。かつての従軍慰安婦は存在したか否かといった歴史認識問題と同様で、「声をあげた被害者をないがしろにするのか」というクレームが飛んできそうです。ですが、はっきりいうと、それを踏まえてもなお、そうした方がいいと私は主張します。

そういう意味で、文科省は大きく方向を誤っています。文科省はここ数十年、いじめの定義を徐々に広げてきた。現在では「児童生徒が心身の苦痛を感じている」ならばいじめである、というものに近い。ここまで定義を広げたらいじめ案件が氾濫してしまい、深刻かどうかの峻別ができなくなる。したがって、本来優先的に対処すべき事態に対処できなくなる。

この意見に心情的な反発を覚える人は少なくないでしょう。でも、本気でそう確信しています。けっしていじめを軽視しているわけではなくてね。

そうですね、誰にでも明らかな比率のことを考えてみましょう。ネット上にころがっている議論をみてください。いじめは一人の被害者に対して複数の加害者がいることが一般的です。ですから本来であれば、被害者より加害者は多くなります。ところが、これを「自称」ベースで考えてみるとどうなるか。

いじめられた人の数といじめた人の数は、「自称」をベースにした場合はまったく一致しません。「実態」をベースにするなら加害者の方が多いはずですが、「自称」は逆で、被害者の方が多い。世間はいじめられたと主張する人であふれていますが、反面、いじめたと主張する人はほとんどいません。つまり、「自称」ベースでは統計的な把握などできっこないということです。そう思いませんか。

いじめ加害者を「自称」したレアケース

オマケです。数年前、いじめ加害者を自称するレアケースを目にしました。小山田圭吾です。

東京オリンピックのときに、コーネリアスの小山田圭吾がかつて雑誌で「いじめました」とインタビューで答えていたことが問題となって、開会式の音楽担当のポストを外されました。これはいじめた側が自称した稀有な例ですが、炎上したことからみても、まったく非合理的でした。普通の神経ならそんなこと言いたがりませんよね。

でも、私は何となくその感覚がわかってしまい、何ともいえない気持ちになりました。小山田圭吾のインタビューは、当時のサブカル特有の露悪的なムードを下地にしないとおよそ理解しがたいものです。ワルカコイイとかいう言い回しもありましたが、自身の異端っぽさを演出するために、ホントかどうかもあやしいエピソードを語っていたんでしょう。(つまり、このいじめのエピソード自体「盛っている」可能性が高いと思います。)

カムアウト系の話題は実態調査と相性悪い…のか?

とにかく、いじめの実態といじめのカムアウトの問題はわけて考えるべきです。カムアウトの問題といえば性的マイノリティが有名ですが、これってたしかに、性被害も少し似たところがあるかもしれません。正確には、似てきているのかもしれません。

本来、性被害という問題について、性被害を受けたということは言いづらいんだ(カムアウトには勇気がいるんだ)とされてきました。今でもそうでしょう、とくに日常的な人間関係の場にあっては。

ですが、me too運動などの盛り上がりから少し方向性が変わってきていて、性被害を受けたと主張するケースは増えてきました。それに対して、性加害をしましたと主張するケースはまったくないため、露出量の面でズレが生じています。

かつていじめられていた人も、かつて性被害を受けた人も、ウェブ上を探せばいくらでも見つかります。しかし、その逆はほぼいません。ある立場なら声があげられますが、その逆の立場では声があげられない、こういった非対称性が生じています。

いじめも性被害も、被害を訴える側の声は段々と大きくなっていくのに対し、加害側の声は全く増えないでしょうから、数値上でますます大きく乖離していくことになります。その乖離を、まるで「社会が隠蔽しているぞ」というふうにメディアは喧伝するかもしれませんが、それにはつられないようにしましょう。私の主張はそういうことです。

(脚注)
*メディアの方々の名誉のために付言しますが、もちろんそれらの記事にはそれ以外の内容も載っています。例えば、児童生徒側は精神面や体調面での不調によって不登校になったのだと回答するのに対して、教員側はそう回答したものが少なかったということだとか。このズレに関しては少し話題が逸れますが、おそらく調査項目の設定に問題がある可能性が高いので今後見直していく、みたいなことがコメントで出ていました。まあそれは容易ではなさそうですが、結構なことだと思います。

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