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学校は限界です

intro

タイトル通り、いまの日本の学校とそのシステムは限界が近いよという話です。網羅的に語ろうとしたため、すごく長くなってしまいました。大して目新しいことは言っていないので、タイトルの意味さえ理解してもらえれば流し読み程度で十分です。

百周年を迎えまくった学校

学校は限界を迎えている。そのことを示す最もわかりやすい根拠は、教員不足でしょう。物流業界の2024年問題と似ていますね。限界が近い状態で運営しようとすると人が離れていく。それをなんとかしようと待遇改善など進めても根本がどうにもならないので焼け石に水。物流業界と教育業界。たぶん、まったく同じ構図です。

今回は、個別の教育問題を語るには先に概観を知らねばというところで、なぜ限界が近いのかについてざっくりと語っていきます。

まず学校の歴史から話始めたいです。

日本の学校、小学校でも中学校でも高等学校でもいいですが、こうしたものがいつ頃普及したんでしょうか。詳しくは歴史研究者に任せますが、これまでの教員経験で、どの地域にいっても、開校百周年といった長い節目を迎えた式典を目にすることがありました。どうやら2000年から2020年に対しての百年前、つまり1900年から1920年辺りに日本の学校中学校とか高等学校といったものは形作られていったようです。

もちろん名前は今の中学校や高等学校ではないでしょうが、その原型となる学校自体は明治・大正時代に整備されていったのでしょう。このことは冷静に考えると驚くべきで、深掘りしてみる価値があります。

考えてみると、地元の商店で創業百年というところはあまり見かけません。老舗のウナギ屋さんとかお寿司屋さんでまれに目にする程度です。多くはせいぜい30年40年といった年月しか経っていない商店が多いはずです。それに比べて学校は、百年続くことが頻繁にあります。

そこまで長く続けられるのは、ひとえに新陳代謝が悪いから。つまり、学校は長らく競争に晒されてこなかった業種なんです。

その理由と考えられるのは、公共性だか公益性だかといった理由による保護です。つまり、文部科学省が学校というものを社会にとって必須のものと考え、潰れないように保護してきた。学校はこの一世紀、競争に晒されないように守られてきた。

具体的な保護のやり方としては、国や自治体による認可・許可です。学校法人を立ち上げて、ある場所に校舎を建てて、ある人数の生徒を集める。これは自由にできません。膨大な数の認可や許可が必要です。国や自治体は学校に自由競争させないことで、地域の子どもが不利益を被らないようにコントロールしてきた。学校は定員数も自治体と調整して決めているので、もっと生徒を集めたいと思っても自由にはできず、許可が必要です。こうした不自由な状態にコントロールされることで、競争が起こらず、ほとんどの学校は潰れなかった。

ここでは国の学校制度への過度な規制と多少乱暴ですが言い切ってしまいます。これって本当に社会的利益をもたらしているか。もたらしたのか。私は怪しいと思うのですが、両面から見る必要があるでしょう。

ほとんどの子どもが高校まで通うようになり、基本的な文章を書いたり計算をしたりできるようになったのは、この一世紀に渡って日本全国どこでも(僻地であっても)学校が安定して存在したからである、とか。学校がいじめ等の問題を抱えたまま変わることができないのは、対外的に低評価の状態が続いても潰れないというある種の既得権益によるもので、長らく競争に晒されなかったからだ、とか。功罪どっちもありそうです。

それはそれとして、問題は、今後どうあるべきかです。

私の考えは、学校死すべき、です。現代の学校というものは寿命が尽きつつあるし、そうあるべきだ。国や自治体が介入して無理に延命させる必要はない。そう考えています。

実際、2050年になって、今あるような学校がほとんど残っていなくても、私はそれほど驚きません。これからの時代は学校も安定していないし、安定させる必要もありません。教育は、既存の学校を中心とした初等中等教育はそろそろ大幅にアップデートする必要があります。それがどのような形かを模索するのが大きなテーマです。

私自身は、きっと、正解は導けません。ですが、その一助となるような現場をこの目で見てきたような気がしています。だから今回、noteに残すことにしました。

なぜ学校は死にかけか

その前に、なぜいま学校は機能不全に陥っているのか、寿命が尽きつつあるのかを説明していきたいと思います。

原因の一つ目。少子化。

これについては言うまでもありません。子どもがいないのに学校が存在する。数多くの学校が、数少ない子どもを取り合うという不自然な状況が発生しています。子どもがいないのなら学校は存在意義がありませんから。単に供給過剰です。現に地方は定員割れを起こしている学校だらけです。

原因の二つ目。社会において多くの役割を引き受け過ぎているから。そして、結果として従業員(教員)のなり手がいないから。

まあコンビニと同じですね。昔はレジに立って、バーコードスキャンしてお金もらうとか、商品を陳列するといった役割だけが求められていたのに、コピー印刷とかATMとか宅配物の受付・受取とか公共料金の支払いとか多機能化、社会のインフラ化していった。そのため役割が増えて、バイトはどんどん大変になっていった。コンビニバイトに求められるタスクは増えているにもかかわらず、それに見合った処遇には変わらない。(そのためバイトを募集しても誰も応募しなくなる。)

これと同じで、社会が学校に求める役割が多くなっていて、教員はマルチタスクをさばかなければならないのに、それに見合った待遇ではない。それで教員=割に合わないブラックというイメージが定着した。教育業界に限らず、東大生が官僚になりたがらないところをみても、今の時代は残業バリバリのブラック系は不人気なんでしょう。いや、それって当たり前か。

公立校は自治体ごとに教員採用試験を行っているのですが、その倍率を調べてみてください。氷河期時代に比べて驚くほど下がっています。氷河期時代は数百倍だったのに今はたった数倍みたいな。倍率が大幅に下がったことで、教員はなろうと思ったらわりとなれる職業になりました。(結果的に人材の質は下がりました。今後はこれまでよりサービスの質が落ちていく一方でしょう。)

こう書くと、「教員ってホントに多くの役割引き受けているのかよ」と反論されるかもしれません。たしかに「多くの」というと語弊があるかもしれません。量の問題というより質の問題です。構造的に学校が苦しい立場に置かれていて、本来引き受けなくていい役割まで引き受けざるを得ない状態にある、といいたいのです。

例えば電話をかけるという行為について考えてみてください。

役所であれば、午後5時以降に電話をしても繋がらないというのは常識で、誰もそのことに表だって文句をいいません。ところが学校は、教員の勤務時間が午後5時までだったとしても、それ以降に問い合わせをしても構わないという風潮が蔓延っています。これは非常におかしな状態です。

なぜこれがまかり通っているのでしょう。一つは、学校が午後5時以降もサービスをしているからでしょう。

その時間は部活動というものがあり、教員も学校に残っていますから、実質的な営業時間内だろうという認識がお互いあるわけです。(しかしこの部活動が労務管理上の不透明さを生む主因となり、近年ではそれで教員志望を避ける若者が多いというニュースも耳にしますので、メスを入れるべきでしょう。)

あるいは、こういうことかもしれません。学校は教育というとても大事な機能を担っているから勤務時間は守られなくてもいいんだ、こういうふうに社会的にコンセンサスを得ているから。少なくとも一部の保護者などはそのように考えているから、躊躇なく電話をかけられる。

これってある種の「教職=聖職」論が悪用されているケースといえます。

教育相談の際に、「困ったことがあったらいつだって相談していいんだよ」みたいな言い方はよく聞きますが、「困ったことがあったら勤務時間内ならいつだって相談していいんだよ」という言い方は聞いたことがありません。「教職=聖職」だから勤務時間は守られる必要がない、ということでしょうか。

私は危険な言い方だと思います。「いつだって」が「24時間」という意味なら、教員は夜中でも相談受け付けて当然ということになっちゃいますよね。24時間やっていくのが困難になってきたって辺りも、教員の勤務の問題はコンビニと似ている気がします。(最近、24時間営業のコンビニが減っているらしいです。)

いずれにしても、このような立場になると、学校はそうしたニーズに応えるために、労務上、過剰なサービスをしなければいけなくなります。学校が機能不全に陥った原因の一つはここにあります。

教員はありふれた職業で、聖職者でも何でもない。たまに風俗行く奴もギャンブルにはまる奴もいるし、仕事早く終えて家に帰って酒飲みたいと考えている。他のサラリーマンと同じです。だけれど社会がそうした見方を許していない。だからどうしたっていびつさを抱えた組織にならざるをえない。

働き方改革はすばらしいことですが、世間の学校に対する見方を変えなければ、今のままの学校では実現不可能です。これを解決するには、学校や教師という幻想を一度捨ててしまうほかないと私は思うのですが、いかがでしょうか。

保護者と教員が協力できない(行事編)

脇道に逸れつつあるので戻します。他にも様々な原因が挙げられるのですが、長くなってきたので、あと一つだけにします。

原因の三つ目。学校と外部との関係性が変わってきているから。とりわけ致命的なのは、保護者と教員の協力関係の維持が困難になってきたから。

ご存知の通り、学校の教員は「先生」と呼ばれます。仮に相手がはるかに年上であったとしても、教員に対しては先生と呼ぶような習わしがあります。これを不自然に感じるという声もよく聞きます。私も同感です。

しかし、先生って本当に保護者から持ち上げられているんでしょうか。実際はそうじゃありません。そして、そうじゃないからこそ問題が起こりまくっています。

私の意見を先に書いてしまいますが、「教員は保護者と対等な立場で議論しないほうがいい、対等な立場にたつといろんな問題が解決しなくなるから」というものです。

これはたぶん世間から反発くらう意見だと思うので、少し詳しく説明します。結構長くなると思います。

学校で起こるあらゆる事柄は保護者に情報開示し、説明し、協力を求めることになります。学校が出す保護者宛の通知文の結びは決まって「ご理解ご協力のほどよろしくお願い致します」というやつです。

ですが学校は、本来、勝手にやっていることだらけだったはずです。行事ひとつにしても、学校がやりたがっているから保護者の同意などなく勝手に企画して行ってきたものです。ところが近年、特にコロナ禍以降、そうした常識が通用しなくなっています。

例えば修学旅行で沖縄に行きますというとき、ウチの子は沖縄に行ったことがあるから行きたくないとか、どうして北海道じゃないんだとか、海外連れていけとか言われても、どうにもできません。学校行事って、不満があっても我慢してやっていくものですから。我慢できない生徒への対応はできません。その対応をしろといわれたら、どんな行事もできなくなっちゃいます。

他の例でいえば、芸術鑑賞教育といわれる行事がどの学校にもあります。だいたい歌舞伎とかオペラとか、多くの人が関心なさそうな芸術とか芸能を観賞するわけです。お金もとられます。そんなの何でやるんだ、ウチの子はそんなの見せたくないからお金払わないなんていわれたら、こうした行事は成り立ちません。

あるいは、「そんならやらなくてもいいじゃん」と思うかもしれません。

一理ありますが、それならもともとその学校に入れるべきじゃない。学校教育ってそんなものですから。運動苦手だったら体育祭いかなくてもいいなんて判断を多くの子どもがするようになったら、成り立ちません。(というか実際、少しずつ成り立たなくなってきています。)

それを許したらまずいんです。そもそも学校行事なんて大概はやらなくてもいいことですから。やらなくてもいいことをお金かけて一生懸命やるから、結果的にいろんな経験を積んだ人間に育っていく、そういう場が学校です。そういう場だと了解して保護者は入学させていると思うんですが、最近、その辺りのコンセンサスが得られていないように感じられます。

くどいようですが、身勝手にいろいろな行事をやる学校に納得いかないのなら、入学させないのが筋だと思います。(選びたくても選べないという問題があるのも事実ですが。)もちろん、足を怪我していても無理して遠足行けと言う人は誰もいませんから安心してください。いろんな心身の事情は考慮されます。ですが、学校が「すべきこと」を勝手に決めて参加させるのが行事の基本スタンスなのは間違いないです。

そうそう。勝手に決めるんじゃねえという意見もあるかもしれません。

行事についていうと、生徒が主体的に決めるという解決策もありますよね。修学旅行の行き先をプレゼンさせて投票させてみんなで決めようみたいな。あれは大賛成だし、実際、私もやってきたことなんですが、そういうのはしょせん小手先の対応で、本質的には解決できないと思います。

どうしたって学校行事には「よくわかんなくても参加してね」という説明抜きの圧力が必要になるし、その圧力抜きだといつかは崩壊すると思います。(まあこれについては異論はあるでしょう。)

保護者と教員が協力できない(クラス編成編)

行事以外もそうなんで、もう一つくらい例をあげましょう。クラス編成です。

4月に新年度のクラスが発表されると、「どうして仲の悪いあの子と一緒になったんだ」とか「仲いいあの子と一緒にしてくれ」とか「あの先生の担当は外してほしい」とか、そういう要望が飛んできます。それも、生徒ならともかく、保護者から。

その要望の何が厳しいかといって、例えばAという生徒を1組から2組に移したとすると、人数調整のためにBという別の生徒が2組から1組に移るわけです。クラス編成時にある人間関係のもつれを解決しようとすると、別の人間関係のもつれが発生する。

つまりある側面からみたプラスが、他の側面からみるとマイナスだったりするので、何が最善かは、俯瞰した立場からしか絶対にわからないのです。だから原則、生徒や保護者は学校側を信じて受け入れてもらうしかありません。(補足ですが、通常、クラス編成は人間関係ではなくカリキュラム上の問題が優先されています。まあ学校=勉強するところなんで当たり前ですよね。)問題は、これまでは不満があっても飲み込んでいたはずなのに、どうしても飲み込めなくなったのか、なぜこういう話が出てくるようになったのかです。

もしかすると私が知らなかっただけで半世紀前にもこういう問題はあったのかもしれませんが、ここでは最近になって増えてきたという仮定にしたがって話を進めます。

もしこれまでこの問題が起きなかったのだとすれば、「一見するとこのクラスには納得がいかないが、きっと学校はいろいろ難しい問題を何とかしようとしてベストな選択をしてくれているはず」と思ってくれていたからです。保護者と学校との間にそういう信頼関係があったからです。そういかなくなったということは、その信頼関係が崩れてきているということです。

そして、対等な立場で議論をしてもうまくいきません。議論はすればするほど袋小路に陥ります。どこかで我慢させないと、対話だけでは解決しない。絶望的ですね。

いずれにしても、学校の秩序は、外部から、特に保護者や児童生徒からの信頼が前提で維持されてきました。教員という立場は、根拠はなくともある程度の信頼が前提となっていなければ、様々な点で抑えが効かなくなるのです。

というか、現に抑えがきかなくなっています。

有名なところでいえば、モンスターペアレンツと呼ばれる一部の保護者に引っ掻き回されることで、多くの児童生徒が不安感をもったまま生活することになっています。こういうのって、保護者と協力関係を築けない、保護者の暴走を抑えられない教員の責任だと思いますか。私は「設計時点で無理があるから協力関係築くのとかできるわけないじゃん」と思っています。

メディアはしばしば「教師は性犯罪予備軍だ」みたいな書き方することがありますが、あれもそうではない大多数の教員に対して失礼だし、現場に悪影響が出るのでやめたほうがいいですね。教員の信用を失墜させると、抑えが効かなくなって現場が荒れるからです。この問題は腹が立っているので、別の機会にもうちょっと語りたいです。

ちょっと感情的になってきたので、仕切り直します。話を戻して、保護者による教員への信頼がどうして崩れてきているかです。別の視点を加えます。

これを生んだ要因としては、保護者の高学歴化もあるかもしれません。

学校教員は、大学の教職課程で免許を取得した存在ということで、大昔はちょっとしたインテリのような立場でした。地元で暮らすちょっと賢い人、みたいな。ところが近年、大卒の保護者の比率も高まっているので、その地位は相対的に下がっています。私自身、保護者が大学教授だったりして、三者面談の際に上から目線で説教をされるといった経験があります。大卒や教職課程というバリアーが、教師に対するある種の畏怖を生んでいたのだと思いますが、そのバリアーがなくなったので、保護者は教師に過剰な要求をするようになったということです。

この件も手短には説明できないので、別の機会にしっかり語りたいです。でも学歴の話をしたのは、縦関係が崩れるとうまくいかないと言いたかったからです。大衆とインテリというか、学校が社会より少し上の立場にあることで、その縦関係がかつての学校を支えていたのだとすると、それが崩れたいま学校を維持することは困難ではないか、ということです。

それが崩れたあとの日本。
保護者と教員は対等な立場で協力しあいましょうという言葉。
私には虚しく響きます。

ほとんど誤解はないと思うんですが、念のための補足です。

別に教員が偉いといいたいんじゃなくて、そういう設定にしておかないと維持できないでしょといいたいんです。別に教員は偉くありませんよ、もちろん。

それにもう一つ。別に維持するのが正しいともいっていませんよ。学校死すべき、と言っているくらいですから。むしろ延命するのは得策じゃないと思っているくらいです。「維持できないくらいしんどいのをわかってよ」と言っているだけです。言っているというか、悲鳴をあげているというかね。

まとめ

さすがに長くなり過ぎたのでこのくらいで終わりにしましょう。やっぱ具体例を語り始めるとまずい。端的に語ろうと思っても感情が入っちゃって脱線しまくる。反省します。

途中から愚痴ばっかりで脇道に逸れてしまいましたが、全部で三つほど原因をあげました。少子化と、教員の多忙化と、学校と保護者の関係性の変化です。どれも致命的です。学校、死にます。

こうした原因により、大正昭和平成と連綿と続いてきた日本の学校の姿は令和になって限界を迎えています。そろそろ寿命が尽きます。

めちゃくちゃネガティブですが、それが私の見方です。

これ以降、この絶望的な状況を前提として、個別の問題(例えばいじめとか不登校とか)について語っていきたいと思います。

暗いなあ。

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