見出し画像

校則改正のおもいで② ~学校と社会と法~

前回に引き続き、校則改正の中で感じたことをご紹介します。今回はめっちゃ思弁的で気軽に読むには不向きかも。

学校は社会の部分集合である

「教師には社会人経験がない」という言い回し、聞いたことありませんか。実に謎めいた表現です。この表現って、学校が通常の社会でないことが前提となっていますよね。

教師は学校という社会で社会人経験を積んでいるという言い回しの方が正しいのに、どうしてこういわれてしまうのでしょう。

学校は通常の社会ではなく、チュートリアルモードみたいな別空間だ。実社会でサバイブするのは大変だから、その方法を学ぶために作られた社会のミニチュアだ。チュートリアルモードあるいはミニチュアだから、そこで起こった出来事は通常の法律に縛られない。そのようなイメージを持たれている方は少なくないようです。

たしかに学校は特殊な社会です。学校で主体となっているのは未成年者ですから、未成年が学ぶ場所という点である種のチュートリアルモードといえます。

通常の社会と同様、様々なトラブルが起こりますが、その結果を通常の社会と同じ観点でバシバシと解決するのは適切ではない。小学生同士がケンカしてケガしてしまったとき、断固として傷害罪を適用すべきと考える人はまれでしょう。(いなくもなさそうですが。)

しかし当然、学校も社会の中にあります。別空間ではありません。通常の法が適用されます

そして校則とは、社会の部分集合である学校の、その中でのみ適用されるマイナーな規則のことです。会社でいう就業規則と同等ですよね。

日本国憲法で「基本的人権を尊重しろ」といわれているなら、その部分集合である学校が「基本的人権を尊重しません」ということはできない。全体に適用されるルールは部分にも適用されている。私はごく当たり前のこととして、そう思い込んでいました。

ところが、この認識は一般的かといえば、少しあやしいところがある。

たとえば以下の記事がわかりやすいのですが、専門家の発言によれば、「学校が一般市民社会と異なる部分社会であることを根拠に、校則を制定できる、とする考え方もあります。一方で、校則は児童生徒の人権を制約する側面を有するため、子供の人権の観点からは学校の校則制定権を否定する考え方や、制定できるとしても教育目的達成のために必要最小限度にとどめるべきであるという考え方もあります」とあります。

(教師のための法律相談 〜茶髪禁止の校則、拘束力はある? - 時事通信出版局)
https://book.jiji.com/seminar/limited/column/column-2994/

スクールロイヤーをされている弁護士の方がおっしゃることなので、間違いないでしょう。

そうすると、「学校は社会の中」派と「学校は社会の外」派のどちらの派閥に属するかによって、校則の役割が大幅に変わってきてしまいます。私は前者の「学校は社会の中」派なので、憲法や国際条約(児童の権利条約など)があって、法律があって、所轄の省庁からの要請(生徒指導提要など)があって、それらに準じる形でさらにマイナールールを定めたのが校則だと思っています。

その観点からいえば、2022年度に改訂された生徒指導提要が「生徒を関わらせて不断に見直しさせろよ」といっている以上、校則改正はやって当然。しない理由がない。

ところが「学校は社会の外」派からすれば、我々(教員-生徒)の別空間がつくり上げてきた治安維持ルールはうまく機能している。外野がとやかく言おうが変える必要などないってことになる。

しかも前回強調したように、校則改正において最大の問題は教員のマインドセットです。教員が「学校は社会の外」と考えていれば、変える動きなど起こりようはずがない。

結局のところ、校則を変えるためには、学校と実社会との関係性(位置づけ)を見直す必要があります。

学校を社会の中に位置づけるメリット

そこでここでは、学校を社会の中に位置づけること、学校を実社会に開いていくことのメリットを考えます。

「校則は何のためにあるのか」と問われれば、「生徒がトラブルを起こさないためのルールだ」と答える方は多いでしょう。危ないからこういうことするなよ、と書いてある。それが校則。まあ髪型とか服装とかの規定はどっちかというとオマケですね。(生徒からするとそっちが本編らしいのですが。)

では「トラブル起こさないように」ルールを定めたのはいいとして、それで、もしトラブルが起きたらどうするか。そのときの対応は二つあります。学校で解決に向けて努力することと、学校外の専門機関(警察や司法機関)に解決をゆだねること。

経験上、どちらのカードも手に入れる必要があります。何もかも学校で解決できるものじゃない。

盗難が多発したとき、教員が常時、盗難がおきないように見張ったり、教員が専門キットで指紋採取したりはできません。それは専門家、たとえば警察に任せるしかありません。

クラスメートの一言がきっかけで傷ついたというなら、むしろ教員が事情をきいて対応すべきです。その程度で侮辱罪だなんだといって警察に相談されても困るでしょう。

ところが、学校を社会の中に位置づけないと、学校外の専門機関に解決をゆだねる発想が生まれにくくなります。

トラブルのすべてを学校が抱えてしまうと、教員が警察もどきや検察もどきの役割をこなすことになり、反発する保護者が弁護士もどきの役割をこなし、裁判もどきを行うハメになる。こうしてトラブルが解決できなくなって困っている学校は少なくないでしょう。

私はこうした事情により、学校を社会の中に位置づけるべき、学校は広く実社会に開くべきと思っています。ある種のリスク管理です。

何も教育的意義といったお仕着せがましい目的のためでなく、むしろ学校の持続可能性のためです。膨大な業務で潰れかかっている学校を今後も維持するならば、これまでのやり方を変えて「ゆだねるところはゆだねる」姿勢にするより他にないんじゃないか。

そう思っているからです。

学校は無限に責任を負う必要はない

もっというと、学校ってトラブルを抱えすぎるばかりか、トラブルに対してどこまで介入するかを決めていないのがよくないと思うんです。

トラブルに関して責任の所在を明確にしておくべきだと思うんですよね。こういうトラブルは学校内で解決に向けて動きますが、こういうトラブルは知ったことではありません、とか、こういうトラブルは学校はここまで関与しますがその先は知ったことではありません、とか。

例えば「物が無くなったので探してほしい」と訴え出てくる生徒がいます。

小学生くらいなら仕方なく一緒に探すのでしょうが、高校生だとまずは自分で探してと伝えます。見つからなければ学校で他の生徒に間違ってもっていないか呼びかける。もしそれでも見つからなければ警察に紛失届を出せばいい。学校にできるのはそこまでですよ、みたいな。

適当に挙げた例ですが、物が無くなったのって、盗難やいじめの可能性もありますから意外とやっかいです。例えば上履きがないとか、ジャージがないとか、財布がないとか。何か嫌な予感がしますよね。

それであっても、原則としては自分で探すのが先です。物の管理は各自で行うものだからです。

遊園地で物をなくしたらどうするか、どうしてもらえるか考えましょう。落とし物が届いていないか係の人に確認してもらえますが、それ以上はしてもらえません。学校もそれと同じでいいんじゃないでしょうか。

もしそれ以上の対応を望むなら、安全を引き換えに人権を売り渡したような、いたるところに防犯カメラがついている学校に通うのがよいでしょう。そういう学校もニーズがありそうだと思います。

これって、少し校則の話から逸れているように感じられるかもしれません。ですが、校則って教員サイドからみるとトラブルを減らすための規則ですから、こうした論点は避けられません。

校則は問題行動を減らすのにそこまで役立たない

ああ、そういえば。

あまりに簡単なことで一度も触れませんでしたが、「校則を厳しくすればするほど生徒の自由は制限されるが問題行動は減る(=治安はよくなる)だろう」という考えは論外です。だって、「みんなが違う髪型をしている組織よりもみんなが同じ髪型をしている組織の方がいじめは少ない」という命題は正しいと思いますか? さすがにそりゃあないですよね。

そんなもの関係あるわけがない。

生徒の自由の制限と問題行動がトレードオフの関係にあるというイメージの人は結構いますが、それは単なる思い込みです。たぶん自身の経験により思い描かれる学校像(荒れた学校像とか落ち着いた学校像)によりそうした認知バイアスが生まれるんだと思いますが、そういう意見は無視するのが正しいでしょう。

校則にそこまでの効果はありません。期待しすぎです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?