安心
山川草木、すべての中には、いのちがあります。
木でも草でも何でもそうです。
その中の、人間は一匹に過ぎないんです。
まど・みちお
今日は久しぶりに関内へ行ってきた。
昔はちょくちょく足を運んだ街だ。
別に行きつけの店とか、知り合いがいたわけではないが、
「どこで食事する?」
「関内あたりで良いんじゃない」
そんな会話の後、行く宛はまったくないのだが、関内を彷徨いたら何かしらかの店があるだろ、という思惑で出掛けていた。
そのころよく食事をした相手が横浜市在住だったこともある。
で、久々の関内は、覚えているはずもないが、それでも変わってしまったであろう店だらけであったと思うが、街の雰囲気がさほど変わっていないなぁ、と思わせてもらえた。
ガラリと変わってしまう街が多い中、こうして何だか変わらないな、と思える街に行くと、なんか落ち着く。
いや、おそらく変わっていない、というのは自分の勘違いだろうとは思うけどね。
でも、横浜スタジアムがあって、その周りにビルがあって、飲食店が固まってあるのではなくて散在している風。
ま、昔も今日も、ごくごく一部を見てそういう勝手な関内像を作っていて、それがたまたま合致しただけの話だが。
行き帰りは、車に乗せてもらっていたので、外をボーと眺めながら。
全くどこの誰だか知れない人をたくさん見てきた。
関内からの帰りには、途中にある街に用があるという方をその街まで送ってからなので、関内とは、途中で通ってきた杉並や世田谷ともまた違った雰囲気の街のそこに住む、そこで働く、また違った風の人々も見ることができた。
誰ひとり知った人間はいない、と言ったが、もしかしたらいたかも知れない、確認できなかっただけで。
ともかく、いっぱいの人を見て、いっぱいの生活を感じさせてもらえていたと思う。
山川草木とまではいかないが、わたしもこのどこの誰だかもわからない人間のうちの一人なんだな、お互いさまで。
そんなことを感じている。
それがとてつもなく嬉しいというか、落ち着く。
知らない者同士が、知らない街で、何をしているかもわからないまま生きている。
大事な生活をそれぞれ過ごしている。
誰かに知られる必要も、解って貰う必要もなく、ただ大事に生きていればそれでいいんだ。
大丈夫だよ、そのままで。
そんな会話ができた気がする。
ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」が聞こえてくる感じだ。
知らない街を歩いてみたい
どこか遠くへ行きたい
遠くで、知らないとこで、誰も知り合い外なところへ逃げたいという歌じゃないんだな。
全く知らないところで、全く知らない人が生きている。
そこに安心がある。
「オマエもいてもいいんだよ」
という安心がある。
さぁ、山川草木と同じいのち、鳥獣虫魚と同じいのち、知らない街の知らない人と同じいのち、そこに安心しよう。