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居場所は欲しいよね、やっぱ。

人間に都合の悪いものを全部切り捨てていけば残る幸せがあると考えるのが合理主義なのです。
だが、それが結果的には自分自身もそこいおれなくなるという状況を作り出す。
他を排除したものは自らもやがて排除されることになるわけです。

            小川一乗


わたしにしては珍しく、本当に珍しく、煮魚が無性に食べたくなった。

そこで、よく行く弁当屋さんで、カレイの煮つけとご飯を買ってきて、それを昼食で食べた。

煮魚を自発的に「食べたい!」と思い、それを食したのは、もしかしたらはじめてかもしれない。
忘れただけかもしれないが覚えがない。

そりゃ、定食屋や居酒屋で、
「B定食の煮魚ってなんですか?」
「ブリカマだよ」
「A定食焼き魚は?」
「サバ」
「じゃ、B定で」

「おすすめは?」
「今日はタイの良いのが入ったから、刺し身。あとは、カブトを焼くか煮るかだな」
「じゃ、刺し身とカブトを煮てもらおうかな」

そんなことは儘ある。

が、基本、それほど煮魚が好きではないので、外食でなく煮魚を自発的に食すことはない。
食べると美味しいのだけれどね。

なんでだろ?

そういやぁ、刺し身もつい最近までは食べたいと思うことがなかったよな。

刺し身は煮魚よりも好きではなかったかもしれない。
宴会とかで刺身が出てきても手を出さなかったし、銘々に盛られて出てきても誰かに食べてもらったりしてることが多かった。
それが、最近じゃぁ、刺し身を買って夕食に食べるもんな。
刺し身で飯を食うのが好きになった。

人間変わるもんだな。

もし、あと5年とか10年とか生きていたとしたら、もしかしたら煮魚大好き人間になっているかもしれないな。
食卓に煮魚がない日はない!なんて感じになっていてもおかしくない。

だいたい、毎食、肉がなければ納得がいかなかったのに、今じゃ、今日は肉は食いたくないな、なんて日もあるし。

気分なんて変わるし、好き嫌いも変わるもんだ。

人間に対しても同じかもしれない。

ま、ほっといて、なんもなく、歳月が流れたからって、嫌いだったやつを好きになるなんてことはさすがになかなかないし、好きだったやつを嫌いになることもなかなかないけど。

ただ、こういうタイプは苦手だな、と思っていたそんなタイプの人間と仲良くなれるようになったり、こういう感じの人に惹かれるな、という同じ感じの人間に一切惹かれることがなくなっていたりはするかも。

てか、昔は初対面で、会ったその瞬間に好き嫌いが、いや、好きはそうでもないが、嫌いは決まっていた。
理由はまったくない。
なんか、なんとなく、「あ。こいつ嫌い」。

話をしたこともなくても関係ない。
見た目が「すんげぇタイプ♡」って女性でも、会った瞬間「嫌いだな」となっていた。
未だに理由がわからない。
合わないとかでもないし、話をしたことがあるわけでもないので性格でもない。
酷いもんだった。

そうなると、話をしてみて、趣味や思考が似ていても、性格がとても良いのが解っても、受け入れることができなくなり、避けるようになる。

たまたま合ったりしようもんなら、その場から逃げることしか考えない。

そんなんだった。

で、最近はというと、その逆で、初めて会ったからと好きになることもなく、嫌うなんてこともなく、会話をしたり、なにか一緒に行動したり、そうした中で相手を受け入れられるか否かを決めているようになった。

これは成長だ!とは思えない。

単純に、人見知りが酷くなっただけだ。

若い頃は人見知りであろうが、それを上回るずうずうしさとなんの根拠もない自信があった。
だから、その場で好き嫌いを決めるなんて事ができたのだろう。

今はというと、まず自信がない。
「何かができるとか優秀であるとか、能力や持ち物に付いてくるような自信は、本当の自信じゃないんじゃね?だって、できなくなったり、持ってたもんがなくなった瞬間になくなる自信でしょ。そりゃ自信じゃなくて、持ち物自慢でしかねぇ」
というのが若い頃の持論であり、それは今も変わらない。
故に、先程、理由なく持っていた自信といったが、あながちあの自信は外れてはいなかったのだと思う。ただ、持続できていないということは、ハズレではあった。
結局、若いとか体力だあるとか、そんな持ち物、一番あやふやな持ち物の自信だったわけだろう。
だから今じゃあたしの自信は木っ端微塵。

そうなると、人様の好き嫌いなんて選べないわけだ。
苦手なタイプは初見の人。
好きなタイプは何回か会っているうちに、気楽だなぁこの人といると、と思える人、つまり、都合のいい人。

こんなんだ。

こんなわたしがもしも他を都合で排除するとなると、とにかく会ったことのない人間は全て排除!

でもって、この地球上、国内、都内、区内、町内、99%以上が会ったことのない人ばかりだ。
て、ことは、都合で排除をした瞬間、わたしの居場所はなくなる、地球上に。

よく、「〇〇人は嫌いだ」なんて住んでいる場所で相手の好き嫌いを決める人がいるが、まぁ、好き嫌いを言っているだけのことならまだいいが、それで「〇〇人はいなく成ればいい」なんてことになると、何をそんなに自分の首を絞める様なことを言ってもがき苦しんで怒っているのだろう、と呆れてしまう。
別にお前が「いなくなれ!」と願ったからっていなくならないし。
「日本から出ていけ!」とか勝手に、まるで日本国土が全て自分のものであるかの如きことを言っている勘違いしたいい年こいた大人もいるが、お前は日本人の代表でももなければ、たとえ持っていたとしても日本って国のほんの一部の土地だけだろうし(ま、それも勝手に人間がここは誰それの土地って勝手に我が物顔で決めているだけの妄想でしかないけどね)、お前に言われる筋合いはない、と言われちゃえばそれで終わりだ。

そうなるとさ、そんなにムカつくのなら、自分がどこかの山奥にでも籠もって、電気も電波も一切ないところで、すべての情報を遮断して生きるか、金持なら宇宙にでも打ち上げてもらうかでもしなけりゃ、居場所ないでしょ。

排除する意識ってのは間違いなく自分の居場所をなくす。

それでもどうしても排除したいのであれば、「わたし」という意識をなくせ。
つまり「自我」を消しなさいってこと。
「わたし」ってカテゴリが無くなれば、「あなた」というカテゴリもなくなる。
一切のカテゴリが消え去れば、排除したいカテゴリもなくなる。
壁がなくなる。
排除したいと思っていたカテゴリも、わたしというカテゴリも、幻想でしかないというところに立つ。
んなもんできっこない。

だから、排除の意識はなくせ、ということ。

でも、どこかで、自分自身も排除の意識はある。

だったら、せめてそれを表に出さないくらいの癖はつけたいなと思うのよ、この頃とみに。

ほら、年食ってきて、だんだん自分の感情のコントロールが効かなくなってきたじゃない。
前頭葉のブレーキ機能がそうとうすり減りだしてきているしね。

「排除」という意識が働いた時、短い言葉でうまくいえないのだけれど、「他の排除=自分の存在否定」ってことを言葉でなく感じ取るようにしている。

だから、あまり好きではない言葉なんだけど、敢えて、「自利利他円満」「共生」なんて言葉を思い浮かべてみることもする。

ともかく、好き嫌いは別として、いなくなられては困る存在なんだな、みんな。


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