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アメンボってなんで浮いてるの?

問があってこそ、答えられるんです。
聞く状況が整ったということが大事です。

            一楽 真


先日、いつものように朝の撮影散歩をしていたときのこと、ある幼稚園へいく母子の光景。

なんだったか忘れたが何かしらを一か所でかがんで撮るのにその場に留まっていた。

そのすぐそばから、

「ほら、アメンボさんがいっぱいいるよ」

と、女性の声。

ふとそちらに視線を向けると件の母子が池を眺めている。

「あ〜あ、おかあさん、やっちゃったなぁ。子供の好奇心に火をつけちゃったよ😅」と、内心苦笑いしてみていた。

案の定、子供はアメンボを指差して、ああだこうだああだこうだ、それでは済まず、近場にある草や花や砂利や、とにかく目に入るものすべてに興味津々。

わたしはその母子に興味津々。
「さぁ、この苦境、幼稚園へ連れていかねばならないお母さん、どう乗り切る😁」
その間にも、その母子を横目に、別の親子たちが何組も、
「おあはよ〜」「おさきに〜」
と、通り過ぎてゆく。

焦ってんだろうな、と、そんな事を考えながら、写真を撮りながらも、そちらが気になり、ついつい覗き見をしてしまう。
その都度、「ダメダメ!写真に集中!」と自分に突っ込む。

でも、その母親はまったく焦っていなかった。
一つ一つの子供の好奇心からくる問に、答えたり、一緒になって考えていた。
「この葉っぱはなに?」
「なんだろうね?でもきれいな葉っぱだね」
「もっていっていい?」
「葉っぱさんが、むしったら痛いよ〜、ていうよ。やめておかない?」
「うんやめておく」
その中でもこの会話は秀逸で、このお母さんできるな、と思わされた。

答えを与えるだけではなく、最終的に自分で判断することの大切さを教えているな、と思えた。

そして、ひととおりの子供の好奇心にいっしょに興味を示した後、
「そろそろいこうか」と。

その間、一度も、急かすことはなかった。
きっと、幼稚園に遅刻しないでいくことよりも、そのときは子供の好奇心を持つこと、興味を抱くこと、いろいろな問や疑問を持つことを大事にしたかったんだろうな、なんて勝手な憶測でその母子を見送った。

子供の好奇心や何にでも興味を示す感性というものは本当に素晴らしいと思う。
今更、それを取り戻せと言われてもそれは無理。
何でもしたかぶって生きているわたしには絶対に無理。
聞く耳持てない自分だなぁ。

そして、問に対して、答えを出すのではなく、いっしょに考える、いっしょに興味を示す、あの母親の姿にもとても学ばされた。

答えを押し付けてやしないか?

そりゃ、仕事で、これこれはどうしたら、と問われれば答えをスパッと言わねばならない時があるのは致し方がないとしても、相談を受けたり、普段の何気ない会話の中でも、いっしょに考えようとするよりも、早く答えを出してしまいたいという自分のほうが多い気がする。

それではあまりにもせせこましい。

もうすこしゆとりのある心を持つようにしたい。

わたしは時間に縛られる質だ。
その時間というもんがどうも「いっしょに悩もう」を邪魔している。
「問い自体が目的」とならない。

少しルーズに生きるようにしたいと思うことが多いこの頃だ。

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