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人の為しかできない

人間は不快をさけるのではなく、
むしろそれを不断に必要とする。
あらゆる勝利、
あらゆる快感、
あらゆる生起は、
克服された抵抗を
前提しているのである。
         ニーチェ

楽して金が入り
何の苦労もなく
いわば職もなく
ただボーとして
食事も出され
掃除洗濯もしてもらい
ただボーと好きなテレビでも見て
本でも読んで
眠たくなったら寝て
ほしいもんは買ってこさせて
生きれれば
そんなにいいことないじゃん。
無理して苦労する必要もないし
そこにいるだけで
生きているだけで
いいんだよ。

なんてことを20代の頃はうそぶけた。

体力もあり
自分の能力なんてまったく分からずに
潜在的に何かあればいつでも何かしらやれるという、
まったく根拠のない自信も持てて
だいいちそんな「楽な立場」(実は辛い立場)に嵌められることのないという事もわかっていたから言えたことだ。

人間
何もさせてもらえないとうのはキツイ。

おまえはいいや

これは地獄だ。

何かしら、人の、家族の、職場の、誰かの、社会のためになっていないと生きられない。
たとえ、それが反社会的行為でも、だれかのためになっていないとできない。
自分の為だけでは生きられない。

人の為と書いて「偽」という字になるとよく言うが、人の為ではなく自分の為なんだ、といいつつも、人の為になりたい、認めてもらいたいというのが人間だ。

人の為だと思っていたが、全てが自分の為だった。
というところに立ってはじめて「偽」の自分に気づけるのだろう。

人間として生きていくことは
常にストレスを感じ
リスクに怯え
そこに喜びを見つけていく歩なのだろう。

仕事に行って何もやることがないと
一日二日は平気で過ごせるが
三日目になると焦りが出てきて
なんでもいいからと仕事を、
やることを探している、
そんな感じの経験は多くの人が体験しているのではないかな。

20代の頃
「何もしなくてもいいなら〜」とうそぶいていたと出だしで書いたが
実際に仲間内でそんな与太を飛ばしていたが
本当に何もやらせてもらえないと
一日どころか、その瞬間でも耐えられなかったというのが本音だ。
「僕は何をしたらいいでしょう?」
「あ、いいよ、休んでて」
「・・・。これやっときますね(^^)」
「いらんことすな!手、だすな!」
「。。。。。😓」

こんな感じだった。

「ただ生きる」なんてことはできない。

喜びが欲しいんだ。
そのためには喜んでくれる人がいなければならない。

喜んでくれる人が見つかったら、何をどうすればより喜んでもらえるのかが問題になる。
これをこうしたら喜びをわかてるというものが見つかったら、それを成すために必死になれる。
結果が出ないときにも許してくれる人も欲しい。
その人も探さねば。
いい結果が出た時に、その姿を見て喜んでくれる第三者も欲しい。
その人も探さねば。

そんな、けっこう難しくて、面倒くさいと思われるようなことを、人間はあたり前に、無意識でいつもしている。

わたしの中にある無意識は、わたしが独りであることを許さず、大小あるにしても常に関わりをもち続けるよううごめいているようだ。

宝くじが当たったら、どこかに越して、独りきりで隠遁生活をしてやる!
なんて思っている自分がいたりもする。
でも、これも若い頃の「仕事しなくて楽」と同じで、当たらないことを前提にしているから言える、おもえること。

何もしないは一番きついことを知らされちゃったし。

何もしないでいられるほど自信はないし。

人間嫌いといいながら、人と関わらないでいられるほど独立できないし。

それならば素直に足掻いて生きていこう。

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