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狂言の後見

落 葉   鈴木章子

「こんなに散らさなくても
よいものを・・・」と
竹ぼうきの手を休めて
恨めしく 見あげたら
枝の間から
青空が見えていた
広大無辺の働きのなか
あなたはここにたち
葉を繁らせ 散らせ
存在の役割りを
はたしていたのですね

今日は「狂言」の鑑賞会だった。
録画だけど。
狂言師の方が曲(演目のことを狂言では曲というらしい)ごとに説明してくれたので、非情に面白く見れました。

で、疲れてしまった😅

狂言は、人間の持つ愚かさが見事に描かれているものが多いらしい。

今日、観た四曲も、みな、人間らしい愚かさを面白おかしく描かれていた。

共通して言えるのは、人間は基本自分は悪くない、そこに立つ。

理由を無理やり付ける。

理由さえつけば、それがどんなに理不尽な理由であろうが納得してしまう。

そんなことを観ながら考えさせてもらえた。

あとは、後見という役。
演者に何かがおきた時に、代わりに舞台を収めたりするらしい。
歌舞伎にもいる。
堂々と舞台上に出て、後ろで紋付袴で正座をして座っているだけ。
これに歌舞伎なら黒子も着く。
狂言の場合は後見が黒子の役割りも兼ねるらしい。

で、この後見と黒子という存在は
いるのだけどいない、というのが見るときのお約束。
見えないるけど見えない。
そこで、例えば黒子が扇子を持ってふわふわ宙を舞わせていたら、扇子が勝手にふわふわ舞っている、というふうに観る。
台詞で「ありゃ不思議、扇子が舞っておる」って演者が言った時、
「不思議もクソも、黒いの着たやつが持って、動いているだけじゃん。いまどきのなんだからCGとか、せめてピアノ線でも使えよ」なんて言ったり、考えたら、そりゃ野暮ってもんだし、あまりにも想像力がなさすぎるってもんだ。

で、今日観た狂言では、後見さんが本当に何もしない曲もあった。

で、いままで後見さんが、黒子的役割り(早替えの手伝いや小道具を渡したり引き取ったりなど)以外で後見の役割り、つまり、演者に途中で何かが起こり代わりに途中から演じたということは、狂言師さんが知る限りでは過去に一回どこかであっただけだという。

それなら小道具や早替えのない曲の時は必要ないじゃん!と、は思わない。

やっぱ、必要だ。
画的にとか、配置的にとか、芸術性とか、そんな意味でなく、必要だ、後見。
そこにいるだけの役目って、すごく大事だなぁ、と、改めて感じた。

何か理由があるから
何かやることがあるから
何か役目があるから
だから必要なのではなく
必要だから必要、意味なんて無い。
それが一番大事。

ここでも、何かと今日の理由(感想)を書き並べているが、一番の感想は「おもしろかった」。
それが自分にとっては一番大事。

ちょっと、チャンスがあったら、今度は生でみたいと思った。

今日は、新型コロナ禍のために、撮った映像をネット配信したものだった。

生だったらもっと面白いだろうな。


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