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今さら十分は無理だからこそ、なんよ。

あればある、なければないで、そのことで常に自分を失っている。
在り方というものをおさえていえば、あるだけで十分。(具足)
あるだけで十分という心だけが、あるものをほんとうに使いきるのでしょう。

         宮城顗

あってもなくても困る悩ましいものってあるかな?と、ふと考えた。

さてはて、なんだろう、今の自分のとって、自分を失わせて悩ませる、在っても困るし、無くても困るもん。

金?
これはこれで、あればあるでより欲しくなるし、なければ生きていけない今の社会じゃ。
でも、まだ、金が有り余って困る、という経験はないので、無くて困ることはあっても、あったら「ありがたい〜🙏」と思うくらいだ。
ま、金に価値観を操られて、自分を失ってはいるけど。

iPhoneやパソコン。
たしかなに、このご時世、一度持っっちゃうと無くては困ることが多い。
あったらあったで、電話かかってくるんじゃないか。メールが、LINEが届くのではないか。
仕事中に、それとは別の大事が起きているのではないか。
そんなふうに悩まされることはある。
でも、たまに忘れて出掛けるが、べつに困らないし、持って出たからといて、重いけど困りはしない。

車。
こいつは悩ましい。
無いと困る。もう慣れちゃったし。
それに車の運転が好きだし。(サーキットで乗るとか、峠でコーナー攻めてとか、マニュアル車に敢えて乗って、なんて高度なことではないです。ただ、普通に車を運転しているのが好きなんです)
車を運転していることで、車の中にいることで、けっこうストレスの発散に成っている。
そうなると、持ってしまうと、やっぱ、新しい車が出る時になる。
気になると欲しくなる。
でも、そんあしょっちゅう買い換えるわけにもいかないし、何台も持つわけにもいかない。だか、当然、これいいな、あれいいな、やっぱもし買うならこいつだな、と、妄想して遊ぶ。
簡単に買えないものだけに、よけいにこうした遊びができやすい。
あって困らされるけど、楽しい困るだからいいんだな。

と、まぁ、いまのところ欲しい物から、どうかなと考えてみたけど、どれも、あってもなくても困らされることはあるが、そのものに原因があるわけではない気はする。

結局の所、どれもが自分の浅はかな知識というやつに振り回されているに過ぎない。

知識というものが常にわたしを悩ましている根源だろう。

新たな知識が入ればその知識によって悩まされる。
知識がないことで悩まされる。

知識っていうのは、自分では正しいと思っているし、その知識を以て様々な事象や感情をコントロールし、自らが知識の主人のように思い込んでいる。

でも、知識は外から入ってきて、わたしを適当にコントロールし、わたしのマインドを狂わす。

知識を持つことは大事だ、人間として。

でも、その知識になんの疑念もなくいることは、知識にコントロールされているだけだということだ。

知識を取り入れると同時に、「?」を必ず付属させることが大事だ。

いま、自論を打っているように勘違いしていた。
この「知識」への疑念というのも、どこぞで誰かが指摘していたことを「知識」として取り入れて、自分のいいように解釈しているだけのことだ。

その解釈ですら、色んな情報や、いろんな言葉や、人間関係や、カテゴリでの立場で身に付いている外からの刺激にほとんどコントロールされてのものだろう。

本当に厄介なもんだ「知識」って。

今の日本社会で人間長くやれば、それだけ多くの「病気」を知る。
それを知ってホッとする人はあまりいないだろう。
自分が罹患するしない関係なく、心は脅かされる。
癌、脳梗塞、アルツハイマー、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、新型コロナウィルス感染症、インフルエンザetc...
治療法を見つけると新たな病を見つけるのも医学だと思う。
治療法を見つけるということはそれだけ医学が進歩するのだから、それまで原因がわからなかった病や昔からあったのだけれど見つけることのできなかったウィルスなんかを新たに見つける可能性は確実に高まる。

医学だけではなく、新たな知識は、必ず新たな価値観を生み出し、新たな悩みを生む。

これが事実だ。

知識に求める救いはあくまでその場しのぎであるべきだろう。

それでいい。

それでも知識は人間にとって大事なものだ。

自分という物を持ったとき、自我というものが生まれたときから、人間にとって知識は毒であり薬であり必要悪であり必要不可欠なものである。

そんな観点から、今日の宮城顗さんの言葉を改めて読むと、それは決して、「欲しがるな!満足せよ!」ということが言いたいわけではなく、欲しがらないと、不満を持ち続けないと生きていけない生き物という自覚を持って、その上で、自分の生活を気をつけて大事に活きなさい、という指針のように思える。
そうやって生きたとしても、それでも自分を失い、迷い惑わずには生きられないのが人間なのだろう。

あ!それと、最後の「使い切る」は、できていないのだけど、ひとつの目標として、物品や知識や欲望は使い切ることはできそうもないけど、「自分自身」は、つまりいまここにある「身体」かな、こいつは、「モノ考えられなくなろうが、仕事できなくなろうが、意地汚く、憎まれてでも、嫌われてでも使い切ってやる」、なんて理想は持っている。


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