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生活の糧

自分の都合で一つも生きているわけではありません。
自分の都合で病気になるわけでもない。
公明正大な世界なのです。

            武田定光


昨夜、眠ろうと思い、床に入って眼を閉じた。
眠った記憶はない。
眠っていた。

目を覚ます予定はしていないのに目が覚めた、夜中。
ついでだから便所に行った。
で、また、床に戻り、眼を閉じた。
眠った記憶はない。
眠っていた。

目が覚めた。
朝だった。
目を覚まそうという意志はなかった。
床を出て、朝のルーティンを済ませて、家を出た。

当り前に寝て、当り前に目覚め、当り前に今過ごしている。

目を覚ませる可能性はどれくらいあったのだろう?

いままで当り前に繰り返してきている、眠って目覚めるという一連の現象に、一切、自分の意志は働いていない。
床について、目を覚ますことがなく「わたし」という意志に終止符が打たれてもおかしくないのに、目覚める朝を感動できないでいる。

この年になってくると、たいがいの朝は、
「だりぃ〜なぁ」
「きついなぁ〜」
「また、一日が始まっちまったよ」
そんな気分を抱えて欠伸をして、便所に行って、しようが無しに行動し始める。

いわゆる惰性で生きている感が満載だ。

そう考えると、文明というものがもたらしてくれているのは、惰性で生きるという感覚と、それを惰性でなくすために作り上げた個々の仕事(用事)ってもんなのかな、なんて思う。

文明・文化が発展して、科学が進歩して、人間が賢くなって、寝ることも、目を覚ますことも、人間にとっては、仕方なくやる作業になってきた。

寝ないと仕事に支障をきたすから。
寝不足だと身体に悪いから。
寝不足で仕事に臨むとミスをするから。

寝ることに理由がくっつくようになっている。

で、眠りにも良い眠りと悪い眠りがあるという。

レムだ、ノンレムだ、と眠りに価値付けをする。

眠れて、目覚められた、その感動を多くの人間は忘れて過ごしている。

ま、いえば、多数の人間は、排泄できたこと、食事ができたことにも感動がない。
もっといえば、息ができている奇跡に感動はなかなか出来るものではない。

自分の都合では何ひとつどうにもできない、根本的には。

意志(こころ)もコントロールできない。

人間の思い通りにするための科学・医学・文明・文化の発展という傲慢を、いいかげん止めねばならないのだろう。

でも、人間はそれを止めるためにはさらに賢くならねばならないと考えてしまう。

賢い人間の考えることは、全て真実とは真逆の方向へと思考が働く。

でも賢さを捨てることができない。

今日もまた、わたしは、昨日より賢くなりたいという欲を糧にして暮らしている。

で、それが楽しいと思っている。

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