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お願い!幸せになってくれ、オレのため!(注・恋愛とは一切関係のない話です)

人は正しく歌えない 
無を語る言葉はなく 
すべてを語る言葉もない 

しかし私の立つ所にすべてがある 
街に人 野に草 
そして 天に無

  谷川俊太郎「野にて」より抜粋


昨日に輪をかけて暑い今日。

昨日も書いた通りきついね。

さて、今日の谷川さんの詩に反意ではなく、誘発された思いを。
あと、今年やっている「平和の祭典」という名前だけの、最も平和からかけ離れている選ばれし特権階級たちのお祭り騒ぎにも誘発されて。

今日は少しだけお坊さんモードで。

実は、無を語る、すべてを語る言葉があります。
「南無阿弥陀仏」です。
「なむあみだぶつ」は「不可思議光如来」「無量寿如来」とも呼ばれます。

サンスクリット語で「ナモ アミタユス」「ナモ アミターバ」。
南無「ナモ」は願う・信ずるという意味
「阿」は否定を表します。
「弥陀」は量るということ。「メートル」の語源とも言われています。

直訳すると、
量れない命の仏にお願いする、信ずる。(アミタユス)
量り知れない光の仏にお願いする、信ずる。(アミターバ)
って感じです。

で、簡単に言いますと、わからない理解不能な働きにお任せする、という言葉なのです。
成るように成っている今を大事と受け止めていく、他力絶対の世界です。
人間にとって一番難しいことだと思います、一切を手放す、任せるということ。

私たちの生活、環境は、わからないことで満たされています。
この新型コロナ禍にしても、今夏の水害にしても、これまで科学や医学や哲学や宗教で解明しようとしてきた数限りない人間にとって都合の悪い事象で満たされています。

でも、その人間にとって都合の悪い事象も全て当たり前であり、それを当たり前と受け止められない、解明して当たり前でなくそうとする、人間のいわば傲慢が自らを追い詰めていると言えるのでしょう。

医学が進歩すればするほど、人間は「生」のみに執着し、「死」を厭い、ありえなことと受け止め、死というものを覆い隠すようになってきました。
「生」は正しく、「死」は悪であるかのように。

医学は一つの例でしかありません、人間の進歩という退化の。

この死を厭う、死を穢れだとする思想は、医学というものが確立される前からありました。
葬儀などで「塩」が配られたり、撒かれたりするのもそうした穢れ思想から出てきたものです。

そうした人間の心の働きは医療だけではなく生活にも現れてきています。
社会を知らぬ間に侵食し、殺伐としたものにしてしまっています。
「美しい国 日本」などという言葉が表すような、「都民ファースト」などという言葉が表すような、選民意識というか、差別意識が私たちの生活を不安に駆り立てているように思えます。

人間優先、人間のための環境という傲慢な思想は、臭いものには蓋をする、汚いものは覆い隠して見えないようにする、上位者は下位者の言葉を聞くこともなくスルーする、都合の悪い事実や事象はなかったことにできる、そうした弱者排斥思想へといざなってきました。

傲慢を問い、見つめ直さねばなりません。

人間は根本的に矛盾した生き物です。
老いる、病む、死ぬという当たり前を厭い、覆い隠そうとする、「悪」とする、非常に矛盾した物分りの悪い生物です。

人間にとっての当たり前(息をする、鼓動する、いまここにあること、等)は当たり前ではなく量りしれない、わかりようもない大事です。
人間にとっての当たり前でないとんでもない事象(老病死や自然災害)は、「自然」「宇宙」という視点に立てば当たり前のことです。

そうした観点から生活や環境社会を問い直す必要を感じます。

人はわからないものをどうにか探り合わすために「コトバ」を作り出しました。
ところがその言葉はいつしか刃となり他者を傷つける、互いの我をぶつけあう道具となっています。
それでも、人間は、言葉を、知恵を、科学や医療を棄てることはできません。
だからこそ必要なのは、問い続けることです。
互いに問い、自らを問い、聞き続けることだけが唯一のまともな社会を作る方法だと思うのです。
たとえ99.9%の人が救われたとしても、たった一人の人が涙していたら、その社会には何処か不具合があるのです。

個々の存在は個で成り立っているわけではなく、過去現在未来という時間を超越して、場所・環境・社会・思想。宗教といった価値観(カテゴリ・バリア・壁)を超えてすべて繋がって在ります。
その、一つでもなくなれば、それは「いま」でもなく、「ここ」でもなく、「わたし」でもないのです。
もちろんその一つに「わたし」も含まれます。

それこそ、このアリが、このタンポポが、このコロナが、全て繋がっていまもここもわたしも在るのです。

私たちがいま暮らしている社会は正常でしょうか?

私の周りでは多くの人が涙しています。
怒っています。
感情を破壊されたように虚無に過ごしています。

一人でも涙する人のいる社会は正常ではない。

全員が全員、幸せに感じられる社会の構築は人間には無理だと思います。
なぜなら人間は浅はかな知恵を、言葉という刃を、量るという差別心を持ってしまったから。
わたしとあなた、我と汝、という区別を知ってしまったから。

そこからは抜け出せません。

ただ、いっしょに問うことは、この道でいいのかな?、と歩むことはできます。

その歩みそのものが、その道を歩むという行為だけが、差別のない、誰もが安心して暮らせる社会の構築に一番近い道なのではないでしょうか。

誰かのための平和ではありません。
「わたし」の平和のためです。

わたしが生き辛さを感じることのない、穏やかで安らかな日々をおくれる、そんな社会を目指せばいいだけです。

ただそれは一人ではできません。
不安は連波します。
わたしが安心を得るためには、周りの安心が必要不可欠です。
周りは目に見える、知っている距離感ではありません。
地球の裏側、何処の誰だかもしれない、そんな人も、わたしの死後に人間を生きる人々をも含み、嫌いな人間も、憎むべき人間も含んだ周りです。

そこに目を向けなければ平和も安心も絵に描いた餅でしかなくなります。

菅義偉という総理大臣が使う「安心・安全」と同様な虚無で、いよいよ不安と危険しか感じられない言葉と成り果ててしまいます。

「あなた」には幸せになってもらわにゃならんのです。
なぜなら、「わたし」の安心が確保できなくなるのです、「あなた」が不安であるなら。

弱者が排斥され、特権階級の人間だけが、そこにいけた一部の人間だけが、そこでその時だけ一時の満足を得るためだけに誰かが泣かされる、被害を被るような社会には何処を探しても安心はありません。
なぜなら、弱者の涙を感得するだけの感性が欠如しているから。
そして、必ず、皆、いつかどこかで弱者に成るから。


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