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パラレルなわたし。

人間で一番恐ろしいのは、知らないくせに知ったかぶりをすることです。
自分が無智だということは、本当の智慧に出逢わないとわからないのです。

             大峯 顯


無知にはなれない。
愚者にはなれない。
凡夫にはなれない。

愚者になることは。

「無知の知」というが、無知であることを自覚した瞬間、解っている自分がそこにいる。
無知である自分とそれを自覚している(外から見ている)自分がいる。

手放しで無知にはなれない。

伯父が書いてくれた書がうちの寺の本堂に掛けてある。

「大馬鹿者」

この言葉は、伯父が大学を出る頃に、ある先生(大きな寺の館長)に言われた言葉だ。
そのいきさつを聞いて、それを書いてくれと伯父に兄が頼んで書いてもらった。

いきさつは、簡単に言うと、
そのころ遊びに関しては秀でていた伯父が、その館長さんのもとで2週間修業をさせられた。ゼミの単位を落としそうだった伯父を始めとする遊び仲間4人への、それが担当教授からの卒業する条件として出された。
で、伯父たちは2週間の修行にいやいや行ったそうな。
ちなみに浄土真宗では、一般に修行とされているようなことがない。
座禅とか、本堂を始めとする各所の隅々の掃除とか、ひたすら経文を読むとか、滝行だとか、そういう苦行難行がいっさいない。
だから伯父からすれば地獄の2週間。
もしわたしがその立場であったら、留年を選びそうだ😅
そこで2週間が過ぎ、さんざん絞られた、その間、顔を見れば、姿を見れば、「バカモン」「バカモン」と何をしていても、真面目に掃除を、真面目に炊事をしていても「バカモン」を言い放つ館長さん。
若い4人は、ブチ切れ寸前。
なんせ、関西ですから、「バカ」という言葉にも敏感であったろうし。
また脱線する。

わたしが京都で学生をしていたころ、だいたい「バカ」と軽く言っただけで、酷いやつ、きついやつ、「そんな言い方せんでも・・・」となっていた。
「バカ」という言葉に慣れていない。
で、東京のガキとして育ったわたしは、「オマエばっかじゃねぇ」「バカと言ったほうがバカなんですぅ〜」「うっせぇ〜ば〜か」「ばかばかば〜か」と、そんな環境で育ったので、関西で使われる「アホ」と同じ感じで「バカ」を使っていた。
「きをつけろよ。街で知らないやつにそれやったら、本気で喧嘩になるぞ」
と、友人になったばかりのやつに教えてもらった。

もとい。

で、さんざん「バカ」を言われまくった伯父たちは、その館長のところに、腹立つジジイだが一応はスジは通さにゃな、と、2週間ありがとうございました、と下げたくもない頭を下げに行くことにしたそうだ。
で、館長がいるの部屋の前で声をかけると
「どうぞお入りください」
と、えらく丁寧な物腰で答えてきた。
恐る恐る襖を開けて中に入ろうとすると、館長は正座をし、迎え入れ、皆が座すと、

「2週間、本当にご苦労さまでした。ありがとうございました」

と、あちらが手をついた頭を下げたという。
伯父たちが、出鼻をくじかれ、何も言えず、呆然としていると

「これからは一生を通して大馬鹿者を目指してください」

と、言われた。
大馬鹿者になることは一生の宿題だということだ。

馬鹿者であることすら認められないわたしが、大馬鹿者になれるかということだ。

一切の驕り、一切の虚栄心、蔑視、そうしたものをかなぐり捨てられるか。
そして、それができた時初めて、自我という呪縛から解き放たれるということなんだろうか。

法然という人は弟子である親鸞に

「浄土宗の人は愚者に成りて往生す」

と、説いたという。

これが一番の課題だ。

オレがオレが、わたしがやった、わたしのものだ、これがわたしの本性だ。

「おれ、本当にだめだし」
「無知なんだよなぁ」
「凡夫だからさぁ」

なんて口に出していっているうちは多かれ少なかれ、自尊心を捨てることはできていない。
おそらく、本気で「ダメ」を感じたら、何も言えずそれをなんとかしようとする、ひた隠すだろう。

それがダメだと言うんだな。

できない自分を自覚した瞬間、自覚しているわかっている自分を問う。
解ってしまっている自分が、誇っている自分が見えたら、また問う。
その繰り返しなのかもしれない。

自覚とは単にわれがわれを知るということではない。
われはいかにしてわれを知ることができるか。
われがわれを知るというとき、われはわれを全体として知ることがない。
なぜなら、われがわれを知るという場合、知るわれと知られるわれとの分裂がなければならず、かように分裂したわれは、その知られるわれとして全体的でなくかえって部分的でなければならぬ。

三木清

この三木の迷路のような言葉が言うとおり、わたしが感じる「わたし」は、少なくとも感じているわたしを除いた「わたし」でしかない。

無知であると愕然した瞬間、その刹那、わたしは無知の自覚の中にあるのだろう。

これは、厳密に言えば「自覚」ではなく、「ほんとう」から見せつけられた事実であり、気付きではなく、遭遇なのだろう。

そんなこんなで、今日いまこの瞬間も、こうして書き連ねて、知ったかぶっている自分を、そんなんで良いのか?と、いかにも解った風の自分が見ている。
その見ている自分を、また違った自分が感じている。

わたしをみつめるのはおもしろい。

わたしを見つめるとそこにあるのは「パラレルワールド」。


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